書評
『逆さまゲーム』(白水社)
〈インドで失踪する人はたくさんいます。インドはそのためにあるような国です〉
アントニオ・タブッキの『インド夜想曲』(白水uブックス)でこの文章にあたった時、わたしは主人公と共に「まったく」という賛同の言葉を発したものである。大学で印度哲学を学んでいた頃、実際に彼の地で失踪した知人を何人か知っているからだ。いや、正確には失踪といえないのかもしれない。だって彼らの身体は戻ってきたんだから。戻ってこなかったのは精神のほう。インド行きの前と後とでは、彼らの精神の在りようは程度の差こそあれ、確実に変容してしまっていたのだ。わたしはそういうインドが気味悪かった。そしてそれ以上に、インドなんかにたやすく自我を明け渡す知人たちの素直さを嫌悪したものだった。
でも実は、ここにあると信じられている現実、もしくは日常生活とはまるで異相の現実を発見してしまった時、人は結構簡単に失踪してしまうものなのかもしれない。オウム真理教という物語の中で多くの人間が様々なかたちで“失踪”していく様を連日のようにテレビで見せられる今、そう思う(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1995年)。そして、そんな思いを新たにさせる作家がアントニオ・タブッキなのである。
行方不明の友人を探してインド各地を旅する主人公が、ついには自らが探される人間、つまり失踪者になってしまう様を陰影に富んだ文章で描き、映画にもなった『インド夜想曲』。身元不明の他殺死体の正体を探索していくうちに、やがて探す者と探される者の面影が重なっていく『遠い水平線』(白水uブックス)。タブッキは、一般に確固たるものと信じられている現実をその反対側から語り直すことで、読者の現実感を揺るがし、物語の中に我を見失わせてしまう術に長(た)けた作家なのだ。
〈ある日、予知できない人生の状況のなかで、それまで《こうにちがいない》と思っていたことが、そうでないということに気づいた、そんな発見〉が書かせたという『逆さまゲーム』にもまた、こことはちがうどこかに読者をいざないかねない結末を持った作品十一篇が収録されている。思わず初めから読み返したくなる、自分は何か大切なことを読み落としているのではないかと不安になる、そんな一筋縄ではいかない短篇ばかりが集められているのだ。
たとえば、ふとしたことから女性として生きるようになった芸人が故郷の妹に送った、「もしも手術(多分、性転換の)がうまくいかなかったらジョセフィーヌという女性名で埋葬しておくれ」という内容の書簡小説「カサブランカからの手紙」。こうやって粗筋を書いてしまうと何の趣向も感じられず興醒めですらあるけれど、予備知識なく読み始めれば、タブッキのしかけたゲームにまんまとはまってしまうにちがいない。
エットレという男性名を持つ「ぼく」と、ジョセフィーヌと名乗る「わたし」。この二人が入れ替わる場面があまりにも違和感がないので、ついうっかりページを繰る手を休めずに読み進んでしまうのだ。そして、最後に「あっ」と驚き、当の箇所までページを戻すという次第。此岸(しがん)と彼岸の境界をそれとは感じさせずに飛び越えさせてしまう文体こそが、タブッキの魅力なのだと、再確認させられる一篇なのである。
タブッキが愛し影響を受けたポルトガルの詩人ペソアにこんな詩がある。〈ぼくが夢想するもの ぼくが感じるもの/(中略)/こうしたものはすべて なにものかを/見おろすテラスのごときものだ/そして美しいのはそのなにものかだ/だからぼくは書く/(中略)/存在しないものに心をこめて/感じること? 読む人が感じればそれでよいのだ〉(『これこそ』池上岑夫訳)。まるでタブッキの書く姿勢そのものを示したような言葉。存在しないものが、書かれることで存在するものへと入れ替わる。その転回点で読者は別の世界に連れていかれる、つまり失踪させられてしまうのだ。タブッキの文学はインドより手ごわいとわたしは思う。
【この書評が収録されている書籍】
アントニオ・タブッキの『インド夜想曲』(白水uブックス)でこの文章にあたった時、わたしは主人公と共に「まったく」という賛同の言葉を発したものである。大学で印度哲学を学んでいた頃、実際に彼の地で失踪した知人を何人か知っているからだ。いや、正確には失踪といえないのかもしれない。だって彼らの身体は戻ってきたんだから。戻ってこなかったのは精神のほう。インド行きの前と後とでは、彼らの精神の在りようは程度の差こそあれ、確実に変容してしまっていたのだ。わたしはそういうインドが気味悪かった。そしてそれ以上に、インドなんかにたやすく自我を明け渡す知人たちの素直さを嫌悪したものだった。
でも実は、ここにあると信じられている現実、もしくは日常生活とはまるで異相の現実を発見してしまった時、人は結構簡単に失踪してしまうものなのかもしれない。オウム真理教という物語の中で多くの人間が様々なかたちで“失踪”していく様を連日のようにテレビで見せられる今、そう思う(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1995年)。そして、そんな思いを新たにさせる作家がアントニオ・タブッキなのである。
行方不明の友人を探してインド各地を旅する主人公が、ついには自らが探される人間、つまり失踪者になってしまう様を陰影に富んだ文章で描き、映画にもなった『インド夜想曲』。身元不明の他殺死体の正体を探索していくうちに、やがて探す者と探される者の面影が重なっていく『遠い水平線』(白水uブックス)。タブッキは、一般に確固たるものと信じられている現実をその反対側から語り直すことで、読者の現実感を揺るがし、物語の中に我を見失わせてしまう術に長(た)けた作家なのだ。
〈ある日、予知できない人生の状況のなかで、それまで《こうにちがいない》と思っていたことが、そうでないということに気づいた、そんな発見〉が書かせたという『逆さまゲーム』にもまた、こことはちがうどこかに読者をいざないかねない結末を持った作品十一篇が収録されている。思わず初めから読み返したくなる、自分は何か大切なことを読み落としているのではないかと不安になる、そんな一筋縄ではいかない短篇ばかりが集められているのだ。
たとえば、ふとしたことから女性として生きるようになった芸人が故郷の妹に送った、「もしも手術(多分、性転換の)がうまくいかなかったらジョセフィーヌという女性名で埋葬しておくれ」という内容の書簡小説「カサブランカからの手紙」。こうやって粗筋を書いてしまうと何の趣向も感じられず興醒めですらあるけれど、予備知識なく読み始めれば、タブッキのしかけたゲームにまんまとはまってしまうにちがいない。
エットレという男性名を持つ「ぼく」と、ジョセフィーヌと名乗る「わたし」。この二人が入れ替わる場面があまりにも違和感がないので、ついうっかりページを繰る手を休めずに読み進んでしまうのだ。そして、最後に「あっ」と驚き、当の箇所までページを戻すという次第。此岸(しがん)と彼岸の境界をそれとは感じさせずに飛び越えさせてしまう文体こそが、タブッキの魅力なのだと、再確認させられる一篇なのである。
タブッキが愛し影響を受けたポルトガルの詩人ペソアにこんな詩がある。〈ぼくが夢想するもの ぼくが感じるもの/(中略)/こうしたものはすべて なにものかを/見おろすテラスのごときものだ/そして美しいのはそのなにものかだ/だからぼくは書く/(中略)/存在しないものに心をこめて/感じること? 読む人が感じればそれでよいのだ〉(『これこそ』池上岑夫訳)。まるでタブッキの書く姿勢そのものを示したような言葉。存在しないものが、書かれることで存在するものへと入れ替わる。その転回点で読者は別の世界に連れていかれる、つまり失踪させられてしまうのだ。タブッキの文学はインドより手ごわいとわたしは思う。
【この書評が収録されている書籍】
週刊文春 1995年10月19日号
昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。
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