書評

『評伝 長谷川時雨』(講談社)

  • 2024/01/20
評伝 長谷川時雨 / 岩橋 邦枝
評伝 長谷川時雨
  • 著者:岩橋 邦枝
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(365ページ)
  • ISBN-10:4061976877
  • ISBN-13:978-4061976870
内容紹介:
"女流文壇の大御所"といわれた美しき作家・長谷川時雨。明治末期、歌舞伎界初の女性作家として華々しくデビュー。至福と修羅に揺れた、流行作家・三上於菟吉との生活。昭和初年代、… もっと読む
"女流文壇の大御所"といわれた美しき作家・長谷川時雨。明治末期、歌舞伎界初の女性作家として華々しくデビュー。至福と修羅に揺れた、流行作家・三上於菟吉との生活。昭和初年代、女性のための雑誌「女人芸術」創刊、輝ク会結成、林芙美子、円地文子、佐多稲子ら多くの女性達を支援、育成した偉大な業績。著者は関係者を訪ね、資料を博渉し、そのドラマティックな生涯を浮彫りにする。新田次郎文学賞受賞。

下町女の気っぷ

「女が女の肩を持たないでどうしますか」

その言葉をけれんでなく言い切り、かけ値なしに実践してみせた女がいる。

長谷川時雨(しぐれ)。昭和三年に「女人藝術」を創刊した作家。林芙美子、大田洋子、大谷藤子、円地文子、矢田津世子ら多くの女性作家がここから巣立った。『美人伝』のシリーズで評判をとったが本人も美人であって、「泣いても笑っても、眉をひそめても、立っても坐っても歩いても美以外の何ものでもなかった」。

長谷川時雨を「誰でも受け止める度量のある大きい人だった」との評を、私も望月百合子氏からお聞きしたことがある。しかし包括的な長谷川時雨伝はついぞ書かれなかった。

『評伝長谷川時雨』(筑摩書房)の著者岩橋邦枝氏のいうとおりだろう。一つは時雨という名の古めかしさ。もう一つは「女人藝術」があれほど激しいアナ・ボル論争を誌上で行い、アカ雑誌とまで言われながら、あっけなく廃刊したあと、時雨が「輝く会」の主宰者として戦地慰問など戦争協力した印象が強いからである。私の興味もそこでプッツンした。

この評伝は、時雨の全体像をじつに爽やかに描いている。女性による女性の評伝はえてして情念というか、ドロドロしてへきえきさせられるものが多いが、本書にそれは全くない。背景もよく調べられている。

一葉に遅れること七年、時雨は日本橋の代言人の娘に生まれた。粋で強気で、私利私欲がなくて鷹揚な性格は、まさに東京の下町っ子のものである。当時はやったリャク屋ことアナキストの物乞いが来ると、「わけえくせにそんなゆすりのような真似をしてるのを、てめえのおふくろが見たら泣くだろうよ」とタンカを切った時雨。カッコいい。一方、生活に困っている佐多稲子には理由もきかずポンと金を与えた彼女。しかしその下町風義侠心こそがむしろ、戦時中の行動の脆さともなった点を、著者は突っ込んでいる。

代言人の娘というから、時雨は何不自由なく知的環境に育ったのかと思っていた。意外なことにあまり学校教育も受けず、親に御殿奉公をさせられ、十八歳で気に染まぬ結婚をしている。二十代で劇作家として華やかにデビューしたのは、こんな情況をはねかえすエネルギーと努力が時雨にあったことを示す。のちに「智的」というホメ言葉が好きだった、なんていうのは、環境からくる飢えかもしれない。

一つの読みどころは一まわり年下の男、三上於菟吉との恋愛と結婚だ。彼を流行作家に育て上げた時雨は、その放蕩も許す。三上が円本ブームでもうけた金でダイヤの指輪でも買ってやろうかといったとき、時雨はその二万円を頂戴、といって女の雑誌につぎ込んだ。三上は「女人藝術」のもっとも近い傍観者として林芙美子の才能を見出し、当初の『歌日記』のタイトルを『放浪記』と替えさせたという(スターとなった芙美子と時雨の微妙な関係も興味深い。芙美子の方がずっとしたたかで、忘恩のふるまいもあったようだが、もしかして時雨の世話焼きがうっとうしかったかもしれない)。

時雨が年齢の引け目を感じつつ、どのように夫の流連荒亡を許したか。尽くしたか。しかし自慰のあとのついた反故紙を姉さん女房に見つけられた夫の方もたまらなかったのではないか。ある時点で時雨は夫婦関係を切りかえた、という著者の見方に賛成したい。男と女が共に住むのは何も性愛のためだけではない。要するに位置さえ決めればいいのだ。安定感や人恋しさや、才能への尊敬や、姉弟的感情や友情や、いろいろあっていいんだろう。

時雨のあくまで町っ子で賑やかで世話好きなところが「女人藝術」のような稀有な仕事を生んだ。しかし、子どもがいないので甥をかわいがり、夫の不在は雑誌編集の女性仲間で紛らわし、究極、自分の孤独と対峙しえなかったことが、彼女の作家としての深化を妨げた。といって著者が愛情をこめていうように、「時雨の、ひとすじの道だけにおさまりきれない積極的な人生には、矛盾も錯誤も脆さもひっくるめた人間味がじつに正直に発揮されている」。その通りだと思う。

【この書評が収録されている書籍】
深夜快読 / 森 まゆみ
深夜快読
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(269ページ)
  • 発売日:1998-05-01
  • ISBN-10:4480816046
  • ISBN-13:978-4480816047
内容紹介:
本の中の人物に憧れ、本を読んで世界を旅する。心弱く落ち込むときも、本のおかげで立ち直った…。家事が片付き、子どもたちが寝静まると、私の時間。至福の時を過ごした本の書評を編む。

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評伝 長谷川時雨 / 岩橋 邦枝
評伝 長谷川時雨
  • 著者:岩橋 邦枝
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(365ページ)
  • ISBN-10:4061976877
  • ISBN-13:978-4061976870
内容紹介:
"女流文壇の大御所"といわれた美しき作家・長谷川時雨。明治末期、歌舞伎界初の女性作家として華々しくデビュー。至福と修羅に揺れた、流行作家・三上於菟吉との生活。昭和初年代、… もっと読む
"女流文壇の大御所"といわれた美しき作家・長谷川時雨。明治末期、歌舞伎界初の女性作家として華々しくデビュー。至福と修羅に揺れた、流行作家・三上於菟吉との生活。昭和初年代、女性のための雑誌「女人芸術」創刊、輝ク会結成、林芙美子、円地文子、佐多稲子ら多くの女性達を支援、育成した偉大な業績。著者は関係者を訪ね、資料を博渉し、そのドラマティックな生涯を浮彫りにする。新田次郎文学賞受賞。

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初出メディア

毎日夫人(終刊)

毎日夫人(終刊) 1993~1996年

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