でも、レベッカを今・此処(ここ)にある現実を誠実にトレースするタイプのリアリズム作家だと思い込んだら大間違い。この『私たちがやったこと』に収録されている二篇、「結婚の悦び」と表題作を、柴田元幸氏が編んだアンソロジー『夜の姉妹団』と『むずかしい愛』(ともに朝日新聞社)ですでに読んでいた人なら、『体の贈り物』の等身大のリアリズムこそを意外に感じたのではないだろうか。
二人きりで静かに過ごすため新婚旅行先に選んだはずの田舎のコテージなのに、到着した途端、友人夫妻がロールス・ロイスで乗りつけてくる。“私”はうんざりするのだけれど、夫の“あなた”は大喜び。「結婚の悦び」は、そんなよくあるとはいえないものの、あるかもしれないよねと思わせる現実的な設定で幕を開ける。ところが、続々と夫の友人たちが押し寄せてくるにつれ、こぢんまりしていたはずのコテージはたくさんの部屋やテニスコートを有するお屋敷へと変貌し、いないはずのメイドやドアマン、コックまで現れて“私”の世話を焼き始める。連日連夜の豪勢なパーティ、そのものすごい人混みの中で夫を見つけることさえできなくなってしまう“私”。やがて毎晩同じ映画が上映され、拍手喝采を浴びる。それは二人の結婚式の様子を撮ったもので、タイトルは「結婚の悦び」。これにみんなが飽き始めると、今度は自分と元恋人全員の関係を明らかにする映画を上映し始める“あなた”――。
ここまでくると、とてもリアリズム小説とは思えない。愛する人と結婚し、相手の体と心にしっかり向かい合う当たり前の幸福を望んでいただけの“私”が経験する、この現実の変容ぶりはいかにもグロテスクだ。その変容をもたらしたのは、“私”と“あなた”という最小単位の関係に介入してくる他者の視線。大騒ぎしている客たちはみんな“あなた”の友人で、彼らは“私”そのものには何の関心も抱いていない。あんなにも素晴らしい“あなた”に選ばれた“私”、“あなた”の言いつけにそむかない“私”。客たちは“あなた”というフィルターを通した“私”しか見ようとしない。
透明人間になったみたいな気分だ。いや、むしろ、まるできちんと服を着込んでいるような感じだと言った方がいいかもしれない。なぜなら、私が裸体をさらしているというのに、誰一人、何も言わないからだ。私自身は、暑さや寒さを肌に感じもすれば、他人の体が私の体に触れるのをじかに感じてもいるのに。
ここに、男と女の社会的地位をめぐるフェミニズム的視点を見出すのはたやすいけれど、しかし、そうした観点だけでレベッカ・ブラウンの作品世界を語るのは、やはり間違っている。“私”と“あなた”の関係、それが何によって損なわれてしまうのか、何ゆえ純粋性を保つことができないのかという問題意識が、この作家の根本的モチーフのように思われるからだ。
それは芸術に似ている。作り、壊す。
世界的に有名なアーティストの“あなた”と無名な“私”。自分の造った美しい作品を自らの手で破壊する“あなた”と、それを手伝う“私”の歪(いびつ)な共犯関係を描いた「愛の詩」もまた、とても短い作品ながら、いや、短いからこそ、その問題意識が濃厚に凝縮された形で現われている。作品が壊されたことを報道した写真、その中でとても効果的で美しい涙を流してみせる“あなた”。“私”は自分も芸術家になった夢を見る。夢の中で“あなた”と同じように作り、破壊してみる。ところが、〈誰も私のことを報道しなかった。誰も私に目もくれず、私にはそれがなぜだかわからなかった、だって私はあなたがやったのとまったく同じことをやっているのに、それだけじゃなくて、私があなたに教えてあげたことを、あなたと私で一緒にやったことをやっているのに〉。ここにもまた、決して対等にはなり得ない関係が提示されている。対等であるという幻想にしがみつこうとしている、歪だけれど切実な一個の魂がある。
〈安全のために、私たちはあなたの目をつぶして私の耳の中を焼くことに合意した〉という文章で始まる冒頭からしてすでに示唆的なのが表題作だ。中に藻と水と小さなエビを一匹だけ入れて封じたガラス球――藻は光合成で酸素を出し、エビはそれを呼吸しながら藻を食べ、藻はエビの呼吸による炭酸ガスと排泄物によって養われるという、最小にして完璧な生態系を実現したエコスフィアを思わせる、閉じられた愛の世界を生きるため、あえて暴力的な行為を選択する“私”と“あなた”。しかし、世間という他者は容赦なく、二人の世界に介入してくる。関係の純粋性はここでもまた達成されることはない。エコスフィアに生きる、その願いが破綻しそうになった時に起こる不可解な悲劇。物語の終わりに至って、一切の説明も抜きに提示されるこの惨事が読む者にもたらす衝撃はかなり重い。“私”と特定の誰かが培う関係性をとことん見つめ抜いた末に得られる異様なビジョン。それはもしかすると絵画におけるハイパー・リアリズムがもたらす幻想性に近いのではないだろうか。
冒頭、わたしはレベッカのことを「今・此処にある現実を誠実にトレースするタイプのリアリズム作家だと思い込んだら大間違い」と書いたけれど、訳者あとがきで柴田元幸氏が指摘しているように、本短篇集に特徴的な幻想性は『体の贈り物』に顕著なリアリズムと、決して断絶されているわけではない。ニューロティックとリアリズム、その語り口は違えども、“私”と誰かの関係を深く突き詰めるという意味ではモチーフに変わりはないのだ。幻視作家としての魅力をよく伝える六篇に『体の贈り物』を彷彿させる語り口の一篇「よき友」、全七篇を収めたこの好短篇集で現時点におけるレベッカ・ブラウンの魅力の全てを堪能してほしい。
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