書評
『カフカと“民族”音楽』(水声社)
カフカは「非音楽的」だったのか?
「非音楽的」とされた力フ力が残した最後の短篇は、我々が日常的に接している「音楽」の様相を考え直す契機
作家フランツ・カフカをめぐっては、テクスト論的な見地、「映画」などの文化論的なアプローチ、さらには故郷プラハの都市論など、さまざまな視座から研究が進められている。だが、まだ十分に検討されていない領域がある。カフカがどのような音楽を聴いていたかという点である。友人たちの証言によると、いわゆる「音楽愛好家」ではけっしてなかったようだ。だがその一方、カフカが残した作品をたどっていくと、歌い続ける「断食芸人」や、音楽に心を奪われてしまう「変身」したグレーゴルなど、音楽との関わりが深い描写にたびたび遭遇する。生前、最後に完成させた作品「歌姫ヨゼフィーネ、あるいはネズミ族」にいたっては歌手が主人公になっている。本書は、そのように「非音楽的」と評されたカフカと同時代の音楽、とりわけ「民族」音楽との関係の読解を試みた意欲的な書物である。著者は、まず一九世紀から二〇世紀への世紀転換期のプラハにおいて、「音楽」というメディアの性質を検討していく。一九世紀以降、民族意識が高まるなか、それぞれの言語の公共圏を拡大しようとする動きが中東欧の都市で広がりを見せるが、同様な現象は「音楽」の領域においても見られていた。スメタナなどの音楽家に対して「国民楽派」という表現がしばしば用いられるように、「民族」独自の音という価値が介入することが期待されていたのである。つまり、「音楽」はそれだけで純粋に成立するものではなく、特定の「聴衆」の存在のもと成り立つものであった。
著者は、カフカの友人マックス・ブロートに着目し、「音楽」にまつわる議論をプラハからほかの土地へ閧いていく。カフカから死後草稿を焼却してほしいと依頼されたにもかかわらず、約束を果たさなかった人物として知られるブロートには、作曲家、音楽批評家としてのキャリアもあり、イスラエルに渡ってからは共著で『イスラエルの音楽』という書物を刊行していた。その際、ブロートがイスラエル音楽の軌跡をたどるうえで参照したのが、一九世紀の国民音楽のひとつの典型であるチェコの音楽だったのだ。
さらに著者は、ブロートが音楽家レオシュ・ヤナーチェクのオペラ台本をドイツ語に訳し、ドイツ語世界への橋渡しをする仲介者の役割を担った点に光をあてる。だが、モラヴィア地方で話される言葉の旋律、いわゆる発話旋律を楽曲のなかに取り込もうとしたことで知られるヤナーチェクの言葉を、ブロートは標準的なドイツ語へと変えてしまう。ブロートの翻訳を目にしたカフカは、ヤナーチェクの言葉を「巨人」のようにドイツ語のなかに捩じ込んでしまったと批判的な文章を綴っている。
カフカにせよ、ヤナーチェクにせよ、ブロートが仲介者として果たした役割はきわめて大きい。その一方で、カフカ作品への「編集」そして標準的な言葉への「翻訳」という介入を通して、ブロート独自の色眼鏡を通した形でしか、両者の作品が提示されなかったことを著者は手際よく提示する。
だが、最終章「カフカの〈民族〉音楽」にたどりつくと、それまで「音楽」を取り巻く環境を懇切丁寧に解きほぐしてきたプロセスは、カフカの短篇「歌姫ヨゼフィーネ、あるいはネズミ族」の読解を試みるための前提でしかなかったことに読者は気づく。歌姫でありながら、ただチューチューと鳴くばかりのヨゼフィーネ、そしてその鳴き声に耳を傾けるネズミ族。著者は、「歌手」と「聴衆」の関係をなす双方の両義的な関係に注目し、両者のあいだに介在する「音楽」の不安定さを鮮やかに浮かび上がらせていく。
「非音楽的」とされたカフカが残した最後の短篇は、そのように評した人間の「音楽」観の狭隘さを示すと同時に、我々が日常的に接している「音楽」の様相を考え直す契機ともなることを、本書は教えてくれる。
図書新聞 2013年3月23日
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