『独りでいるより優しくて』(河出書房新社)

毒のように作用する過去

北京に生まれ、大学卒業後に渡米し、英語で小説を発表し続けている作家イーユン・リーの、新作長編小説である。

主要な登場人物は三人。孤児の如玉（ルーユイ）、彼女に恋する泊陽（ボーヤン）、彼の幼なじみ、黙然（モーラン）。三人が高校生のとき、如玉が下宿していた家の、年上の少女が毒を飲む。彼女は政治的理由で大学を退学になり、就職も絶望視されていた。一命は取り留めたものの、損傷された脳は戻らず、寝たきりの生活を余儀なくされる。

この毒を持ちこんだのはだれか。そもそもこれは、自殺未遂なのか、殺人未遂なのか。事件は解明されない。事件にかかわった三人の高校生は、そのことについてたがいに話し合うことをしない。そうして、きょうだいのようにともにすごしていた三人は、それぞれ異なった人生へ、てんでばらばらに歩き出す。

アメリカと中国、連絡を取り合うことはなく、それぞれの場所で生きる三人は、そっくりの日々を生きている。だれかと深くかかわることをせず、充実感や幸福感といったものをストイックに放棄し、人生を傍観している。そのような日々を、三人とも自分に課している。

小説は、彼らの現在と、北京での高校時代、時間を行き来しながら続く。現在とは事件から二十一年後、かつての高校生は三十代の半ばになっている。人生を謳歌していいはずのその年齢での、彼らの「人生を降りた」感に触れると、愕然とする。ここでは、過ぎていく時間はなんの解決にもならず、なんの手助けもしてくれない。時間が過ぎれば過ぎるほど、過去の事件は三人を縛り、孤独へと追いやる。彼ら三人が、物理的には離れても、精神的にけっして離れることはない。離れないことが、彼らを孤独にする。

事件が起きる前、三人はうつくしい時間を共有していたわけではない。如玉は心を開かず、きょうだいのようだった泊陽と黙然の関係は揺らぎはじめ、以前のように親しく話すことはもうできない。それでも二度と戻らない事件前の日々は、その後の三人の記憶のなかで、楽園のようにうつくしく在り続ける。そして三人とも、そのうつくしい記憶を生のよすがにするのではなく、その記憶によってこそ、苦しみながら孤独を守ろうとするのだ。それこそ、じわじわと効き続ける毒のように過去は彼らに作用していく。

天安門事件の起きる一九八九年の北京と、三十代半ばの泊陽が暮らす北京が対比されるように描かれる。三十代の泊陽は、近代化する北京の町を背景に、理由もわからないまま二十代の女の子を追いかける。経済的豊かさが、生きる上での必需品となった町で彼女は言う。「ここは、私が大人になったら暮らそうと思っていたような世界じゃない」

天安門事件が何を変えたか。文化大革命が何を変えたか。どの時代にだれがどのような世界を望んだのか。果たしてそこに到達したのか。中国だけにかぎらない。私たちはいつだって幸福を望んでいるはずなのに、望んだような世界に生きていると言い切ることはなんと難しいのだろう。孤独に閉じこもる三人もまた、自分たちの意志とは異なった世界に生きることを余儀なくされた。彼らが自らに課す、人生からの「隔離」は、望まない世界で生き抜くための有効な方法なのか。

如玉の最後の告白で、私は戦慄した。この小説に「道理」はない。解決も安堵もカタルシスも、この小説は与えない。それでも読んでよかったと思うのは、この作家が描き出す人生の凄みに圧倒されたからだろう。