書評
『諸国名峰恋慕 三十九座の愛しき山々』(山と渓谷社)
騒々しさから離れた懐かしい山行きの記憶
六月から七月初めは、お山開きの季節である。都会の緑はもう黒ずんだが、山のほうはもえ出たばかり。カラマツのさ緑がけむりのように流れている。コブシが白い花をつけた。イヌタデが背のびをしている。大きな山々を遅い春が帯のように取り巻いている。「二十四歳の夏に建てた山小屋での生活は、平成二十三(二〇一一)年でちょうど五十五年になった」
信州・霧ケ峰高原は広い草原と群落する花で人気があるが、車山(くるまやま)登山道を登りつめたところにコロボックル・ヒュッテがある。ビーナスラインが通り、現在は駐車場やドライブインまであるが、手塚青年が念願の山小屋をつくったころは、大きな湿原を控えた花園だった。
「私は時々衝動にかられて文章を書くことがあるが、衝動に終わる場合の方が多い」
一九三一年の生まれ。戦争が終わって食うや食わずのころが少・青年期だった。当時の文学好きの一つのタイプだが、堀辰雄にひかれ、三好達治、津村信夫、丸山薫、立原道造らに親しんだ。ひもじさを夢でうめ合わせて山に登った。松本市外の生まれであって、いつも山がつきそっていた。高校生のころ、学校をサボって山へ出かけた。特大のキスリングに天幕と白米をつめていく。山小屋は米を出さないと泊れなかった。四日かけて燕(つばくろ)岳から槍ケ岳を単独縦走したこともある。
「時間の観念はまったくなかった」
当時の高校生の大半がそうであったように、腕時計など持っていない。「それで何かと不都合で困ったということはなかった」。若さの本能は太陽と風と影によって正確に時の流れをかぎわける。
八ケ岳、美ケ原、三俣蓮華(みつまたれんげ)岳、槍ケ岳、穂高岳、蓼科(たてしな)山……。信州を中心にして、八甲田山、岩手山、九重連山、谷川岳など三十九の山々が語られている。晩秋から冬にかけて、山小屋に人はめったに来ない。薪(まき)ストーブのかたわらでペンをとった。テーブルは東に向いていて、湿原と草原の稜線(りょうせん)、その上に蓼科山が見える。北東にはどっしりとした浅間山。
「山小屋暮らし」といえば優雅だが、現実はいたって厳しいのだ。荷上げにはじまり、登山者の宿泊や食事、糞尿の世話、登山道の手入れ、嵐や雪の心配。自然と調和を保ちながら生計をたて、さらに人に満足を与えるためには、いうにいわれぬ苦労があった。ペンをとっても「衝動に終わる」ことが多かったのは、すぐにもすまさなくてはならない仕事に気づいたからだ。しなやかな健康と快活な精神がなくては、山小屋暮らしはつづけられない。
回想の山々をたどっていくと、いつも十代の登山家に行きつくところがほほえましい。この世の自分のありかたを決めたからだ。おのずとどの山も独自の風貌と「人格」をそなえている。上高地の火山焼岳(やけだけ)を、研究者は休止期というが、トンネルを出たとたんに異様にヌッとあらわれるではないか。
「学者が何といおうと私は焼岳を見ていると、この山は生きていると思う。活力を蓄えて外の様子をじっとうかがっているように思えてならない」
山を暮らしの場としてきた人には、つねに刻々とうつる時間が眺めの中に入っていた。時間の次元がかかわらなくては記憶にのこらない。百名山制覇を競うような騒々しい山の世界に、一陣の澄んだ風が吹きこんだぐあいだ。森の水で煮立てたコーヒーのように、やわらかで懐かしい味がする。
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