心に触れる、ひろやかな考察
1920年から終戦まで日本の統治下にあったパラオについての、取材と考察をまとめた本書は、いまを生きる著者の伸びやかさが持ち味のルポだ。パラオといえば、南洋庁に赴任し現地で暮らした中島敦の「南洋もの」と呼ばれる小説が思い起こされるけれど、著者の関心も中島敦から始まったという。民俗学者や生物学者、パラオ放送局に勤めたアナウンサーなど、中島敦と同様、パラオに住んだ日本人の記録。統治下のパラオ人やその下の世代のパラオ人が、当時をどのように考え、受け止め、伝えているか。また、開拓をめざしてパラオに渡った元移民の人たちと、「内地」へ引き揚げてからの新たな入植、現在に至るまでのこと。
研究でもなく単なる紀行文でもない。著者の観察と実感に基づく記述は、その根底に「生活」への確かな目があって好感が持てる。当時の日本や戦争を知らない世代の人間が、概念だけに拠(よ)ることなく率直に思い描こうとするならばこうなるだろう、という一つの例が、本書の記述の方法ではないかと思う。
あとがきに次の言葉がある。「一人の人間が、何かを愛するがゆえに、何かを言わないかもしれないということ」。著者が取材の過程で得た実感の一つがそれだ。「日本軍の悪事を知りつつ日本を思慕する人もいた」。心理の矛盾を、正直に捉えようとする記述が心に触れてくる。
デレベエシール(パラオの日本語歌謡)をめぐる箇所が興味深い。これは、統治時代に端を発した、何らかの日本語が交じっている歌を指す。私自身、台湾に行ったとき、統治時代に教えられたという「桃太郎」の歌を年輩者から聞かされ衝撃を受けたことがある。だが著者は歌に関して、なにものにも囚(とら)われないひろやかな考え方をしている。「意味づけを超えたところで愛着は勝手に生まれるものでもある」と。著者の姿勢に魅力を感じる。