書評
『「昭和」を送る』(みすず書房)
精神への「圧力」、減圧の工夫
時代の流れにふと、えもいわれぬ違和を感じるとき、あの人ならどう受けとめるだろうかとその発言にふれたくなる、そんな書き手がだれにも数人はあるのではないか。わたしにとってはずっと、中井久夫がその一人であった。いまも気にかかっている過去の診療のふり返りや、震災時対応についての助言、ときどきの政治状況への発言から、恩師・友人の追悼文や医局や家庭での「手抜き料理」のレシピまで、本書の内容はじつに多彩である。けれども、他のエッセイ集でもそうだが、ひとの精神にかかる〈圧力〉についての診断とその減圧の工夫の提案が、どの文章からも伝わってくる。
人に自然治癒力があるように「事態」にも自然治癒力があると言い切る中井にとって、さまざまな出来事の重なりのなかから予兆や徴候を読む視力が、問題の解決策以上に大きな意味をもつ。ある一線を越えると事態が一変するという、その見えない臨界を視(み)る中井の「臨床眼」は、精神医療の現場だけでなく、それを潜(くぐ)り抜けて時代精神にまで向かう。その推力となるのが、人類学的事実、詩文、政治史・戦史まで、時空を超えて広がる照合軸の遠大さであり、乳児からペットまで触診しようという濃(こま)やかな想像力だ。
昭和天皇の最後の和歌二首と、終戦のときに一歳でありながら、天皇の吐血の翌日に十二指腸潰瘍で千ミリリットルの吐血をして緊急入院し、天皇逝去の三日後に退院した知人の話とから始まり、発表ののち二十数年間、単行本に収録しなかった理由についての付記で閉じられる長い表題作は、昭和という時代にもろもろの精神にかかった凄まじい〈圧力〉がまるで鎮魂歌のように綴られていて、その言葉の重量に圧倒される。
社会評論でも随想でも雑記でもないこの独自のエッセイ集、「エッセイ」の原義どおり、不二の「臨床眼」による〈試み〉の記録としてある。
朝日新聞 2013年8月4日
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