書評
『蟻の塔』(野田書房)
母胎還帰志向のエロス 無名の昆虫に似た男の生涯と狂熱
四百頁余に及ぶこの小説のモチーフは、冒頭の章、少年の主人公が盲目の実母から引き離されて、江戸川を渡って養家に引き取られていく件りにほぼ要約されている。すなわち、これは『ファウス卜第二部』に描かれている、あの盲目の母たちがすまう国への帰還の物語と見てしかるべきであろう。物語の進展につれて主人公は幾人かの女と性的関係をもつ。しかしそれは漁色というような意味での放蕩とはほとんど何の関係もなくて、彼が不本意にも引き離されてきたあの盲目の母の膝下での濃霧につつまれたような未分化状態に立ち還ろうとする衝動を、他の形式で表現しているにすぎない。幼ななじみのけさと早熟な接触をおこなうのは、芝居見物の帰途、ふと望郷の思いにかられたためであるし、女中の文と性的交渉をもつのは、赤痢で入院中、ほとんど無意識の衰弱のなかで赤児のように彼女に看護された経験が動機になっている。いわばこの男の性生活は本質的に受動的、もしくは近親相姦的で、盲目の原母のもとへ帰還するという一貫した衝動に導かれ、母親に抱かれるという形式を模してはじめて欲望が発動するのだ。
女たちの交渉と並んで、それとほぼ同じくらい、生涯に何度か、このかたくなに固い殼に閉じこもったような男が突然激発的な殺意の衝動にかられるが、それとてもやはり同じ母に向う流れが堰きとめられた瞬間に暴発する。エロチシズムと殺意はともども同一の願望に根ざしており、母胎還帰志向が女たちというひそやかな水路を通じて始源の海に導びかれれば、生命の相は漂うようにのびやかなエロスとして実現し、逆になんらかの外的束縛を受けるとき、抑えつけられた願いは殺意の相を帯びる。地震、大火、洪水のような夭変地異がこの小説のなかで象徴的な意味を担うように見えるのも、こうしたコンテキストの上に立ってのことである。
おそらく宗谷氏は、エロスを、物質にたとえれぱ、なにか水のように無定形なものと考えているにちがいない。それは一定の容器や殻のなかに容れてあれば、一見「方円に従って」いるように見受けられるが、ありようはつねにコップのなかの水であることを嫌い、容器の外圧が弱まれば、容器に分離される以前の無形状態にたちまち立ち戻ろうとする。この溶解の衝動はときに破壊的な相を帯びる。すなわち道徳次元でいえば、エロスは本質的にアモラルであって、わたしたちが個体として分有しているこの内部の水は、つねに遠い外部の無形状態にある水との合体を熱望する抑え難い狂熱にかられている。
宗谷氏の透明で平易な文体は、この狂熱をさり気ない殼のなかに隠しもった、無名の昆虫に似た男の生涯を、江戸川の流れのように悠然と描くことに適合しているとわたしは思う。ただ、ややもすると氏の文体が概念的に流れることがあって、その分だけこの小説が冗長であると感じさせるのである。