書評
『甘美なる来世へ』(みすず書房)
小説の読者というのは、たとえて云うなら馬術競技の馬のようなもので、騎手(作家)の指示に従ってコースを回り、障害物を飛び越え、ゴールに向かう姿勢が要求される立場なのだけれど、そこはそれ、易しい馬場(小説)もあれば難しい馬場もあり、難しい馬場なら導く騎手の腕前と馬の日頃の鍛錬(読書)の成果が問われ、事と次第によっては完走することができない場合もあるのだし、〈それは私たちが禿のジーターを失くした夏だったが〉から句読点なしの二十九行で始まる、ノースキャロライナの架空の町ニーリーを主な舞台としたT・R・ピアソンの『甘美なる来世へ』は、その最初の長い一文ゆえに難しい馬場であることが予感され、騎手の騎乗ぶりと馬の側の才能が共に問われるのだろうかと懸念を覚えつつ読み進めていったのだけれど、読み終えた今となってみればそんな畏(おそ)れは杞憂に過ぎなかったことが判明したので、これからこの本を読もうか読むまいか迷っている人には「大丈夫、大丈夫。騎手の腕が極上だから、馬への負担はごく少ない」と気楽にお薦めしたい気持ちでいっぱいなのである。
禿のジーター、禿なのに女性である人物の死の報告から始まり、ジーター一族のあらましが紹介され、禿のジーターの妹であるデブのジーターの描写からその伴侶であるレイフォード・リンチの血筋へと話は移り、〈ジーター一族にはあまり似ずリンチ一族にもあまり似ずジーターとリンチのいかなる論理的組合せにも似ずむしろフィリップ・J・キング夫人の義妹の母親でありピッツボロ在住で時おりどこかよそへ行く途中にニーリーを通過していく女性に酷似して〉いて、「うん」「ううん」の他ほとんど何も喋らない長男のベントン・リンチ、その弟オトウェイ・リンチが登場し、禿のジーターの葬儀からきっかり十二日後に起こるガソリンスタンド強盗事件で幕を降ろすのが第一章。最初のうち、あなたはひどくとまどうに違いない。「なんで、ジーター一族に関してこんな詳しくならなきゃなんないのよっ」とか「なんで作者は〈ベントン・リンチはほとんどの面でまるっきり何でもない人間であった〉で結局は結論づけてしまうような鈍くさいキャラのその凡庸さを、七十六行にもわたって延々説明しなきゃなんないのよっ」とか。でもって、そんな数々の不審な思いを抱えながら、それでも騎手の指示どおりにコースを回っていたのに、第一章ももうすぐお終いというところでいきなり宣言されてしまうのだ、物語は今から始まると。呆れ返るとはこのことなり。
ところが、そこまで読んでいく間にもピアソンの人を食った語り口は着実に脳内に深く響きわたるようになっており、ピアソン菌にやられた推定97/100人は、なんで唐突に起きる強盗事件が全ての始まりなのかまったくわからないまま、急いで第二章に突入していってしまうはずなんである。実際、第一章の間だけでも、騎手に忠実な馬たるわたくしは三ページに一回は笑いで喉(のど)をひくひくと痙攣させ、二ヶ所に至っては笑いの発作を起こしてしばし読書を中断せざるを得なかったほど、このピアソンの語り口菌は感染力が強く、しかも病状は急速に悪化していく次第。たとえば、デブのジーターの尻に敷かれ、およそ主体性というものがなく、唾飛ばしくらいしか能のないレイフォード氏が、姉の死を聞かされ「死んじゃった死んじゃった死んじゃった」「いなくなっちゃったいなくなっちゃったいなくなっちゃった」と錯乱する妻に同調し、「いい人だったのに、いい人だったのに。何てこった」「ふざけやがってばかやろうふざけやがってばかやろう」と十六行にわたって悲憤をぶちまけながら、その二行後には鶏の群れに目を向けて「あそこの鶏に俺の唾、届くと思うか?」と言い、ベントン・リンチが「ううん」と答える一幕。――もう、一部分引用したって絶対に伝わらない面白さなのが隔靴掻痒(かっかそうよう)隔靴掻痒隔靴掻痒なのだけれど、だからとにかく、あなた読みなさいよ読みなさいよ読みなさいよ、笑うわよ笑うわよ笑うわよ、と云っておくに留めたいと思うのである。
その後、ぷらっと家出癖のあるベントン・リンチが、ダムで水底に沈んでしまう地域で墓の掘り起こしの流れ仕事につき、そこで宿命の女たるジェーン・エリザベス・ファイアーシーツと出会い、やがてベントン・リンチの葬儀で幕を下ろす全五章からなるこの物語は、そうした物語の主旋律をきちんと奏でながらも、脱線と思わせておいて実は脱線ではなく後に非常に有機的に本筋に絡んでくる脱線に継ぐ脱線語りや、世界に脇役などいないとばかりにいちいちねっちり念入りにされる人物紹介、同じ言葉を少しずつずらしながら幾度も反復することで生じる異化効果、それら全てがかもす痙攣的な笑いをちりばめて、至福の読書体験をもたらしてくれるのだ。ピアソンという個性的な名騎手に導かれて、トリッキーな、だからこそ走る歓びもいや増すコースを駆け抜ける快感といったら、馬に生まれてよかった、思わずそう叫びたくなるほどなんである。
ピアソンがこの作品で示唆する、小説という形態の底知れない自由さ、限界のない可能性。物語において“始まり”とは一体いかなる時と場所を示すのか。あるいは、世界の全てを記述したいという欲望と、作家はいかにして折り合いをつけるのか、つけないのか。わたしの長年の関心に答えてくれる超傑作にようやく出会えた。その歓びを日本中の読書人に伝えたくて興奮は尽きないのである。
【この書評が収録されている書籍】
禿のジーター、禿なのに女性である人物の死の報告から始まり、ジーター一族のあらましが紹介され、禿のジーターの妹であるデブのジーターの描写からその伴侶であるレイフォード・リンチの血筋へと話は移り、〈ジーター一族にはあまり似ずリンチ一族にもあまり似ずジーターとリンチのいかなる論理的組合せにも似ずむしろフィリップ・J・キング夫人の義妹の母親でありピッツボロ在住で時おりどこかよそへ行く途中にニーリーを通過していく女性に酷似して〉いて、「うん」「ううん」の他ほとんど何も喋らない長男のベントン・リンチ、その弟オトウェイ・リンチが登場し、禿のジーターの葬儀からきっかり十二日後に起こるガソリンスタンド強盗事件で幕を降ろすのが第一章。最初のうち、あなたはひどくとまどうに違いない。「なんで、ジーター一族に関してこんな詳しくならなきゃなんないのよっ」とか「なんで作者は〈ベントン・リンチはほとんどの面でまるっきり何でもない人間であった〉で結局は結論づけてしまうような鈍くさいキャラのその凡庸さを、七十六行にもわたって延々説明しなきゃなんないのよっ」とか。でもって、そんな数々の不審な思いを抱えながら、それでも騎手の指示どおりにコースを回っていたのに、第一章ももうすぐお終いというところでいきなり宣言されてしまうのだ、物語は今から始まると。呆れ返るとはこのことなり。
ところが、そこまで読んでいく間にもピアソンの人を食った語り口は着実に脳内に深く響きわたるようになっており、ピアソン菌にやられた推定97/100人は、なんで唐突に起きる強盗事件が全ての始まりなのかまったくわからないまま、急いで第二章に突入していってしまうはずなんである。実際、第一章の間だけでも、騎手に忠実な馬たるわたくしは三ページに一回は笑いで喉(のど)をひくひくと痙攣させ、二ヶ所に至っては笑いの発作を起こしてしばし読書を中断せざるを得なかったほど、このピアソンの語り口菌は感染力が強く、しかも病状は急速に悪化していく次第。たとえば、デブのジーターの尻に敷かれ、およそ主体性というものがなく、唾飛ばしくらいしか能のないレイフォード氏が、姉の死を聞かされ「死んじゃった死んじゃった死んじゃった」「いなくなっちゃったいなくなっちゃったいなくなっちゃった」と錯乱する妻に同調し、「いい人だったのに、いい人だったのに。何てこった」「ふざけやがってばかやろうふざけやがってばかやろう」と十六行にわたって悲憤をぶちまけながら、その二行後には鶏の群れに目を向けて「あそこの鶏に俺の唾、届くと思うか?」と言い、ベントン・リンチが「ううん」と答える一幕。――もう、一部分引用したって絶対に伝わらない面白さなのが隔靴掻痒(かっかそうよう)隔靴掻痒隔靴掻痒なのだけれど、だからとにかく、あなた読みなさいよ読みなさいよ読みなさいよ、笑うわよ笑うわよ笑うわよ、と云っておくに留めたいと思うのである。
その後、ぷらっと家出癖のあるベントン・リンチが、ダムで水底に沈んでしまう地域で墓の掘り起こしの流れ仕事につき、そこで宿命の女たるジェーン・エリザベス・ファイアーシーツと出会い、やがてベントン・リンチの葬儀で幕を下ろす全五章からなるこの物語は、そうした物語の主旋律をきちんと奏でながらも、脱線と思わせておいて実は脱線ではなく後に非常に有機的に本筋に絡んでくる脱線に継ぐ脱線語りや、世界に脇役などいないとばかりにいちいちねっちり念入りにされる人物紹介、同じ言葉を少しずつずらしながら幾度も反復することで生じる異化効果、それら全てがかもす痙攣的な笑いをちりばめて、至福の読書体験をもたらしてくれるのだ。ピアソンという個性的な名騎手に導かれて、トリッキーな、だからこそ走る歓びもいや増すコースを駆け抜ける快感といったら、馬に生まれてよかった、思わずそう叫びたくなるほどなんである。
ピアソンがこの作品で示唆する、小説という形態の底知れない自由さ、限界のない可能性。物語において“始まり”とは一体いかなる時と場所を示すのか。あるいは、世界の全てを記述したいという欲望と、作家はいかにして折り合いをつけるのか、つけないのか。わたしの長年の関心に答えてくれる超傑作にようやく出会えた。その歓びを日本中の読書人に伝えたくて興奮は尽きないのである。
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