後書き

『歴史家と少女殺人事件―レティシアの物語―』(名古屋大学出版会)

  • 2020/07/08
歴史家と少女殺人事件―レティシアの物語― / イヴァン・ジャブロンカ
歴史家と少女殺人事件―レティシアの物語―
  • 著者:イヴァン・ジャブロンカ
  • 翻訳:真野 倫平
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(400ページ)
  • 発売日:2020-07-03
  • ISBN-10:4815809933
  • ISBN-13:978-4815809935
内容紹介:
18歳の女性が誘拐・殺害された「三面記事」事件。だが、大規模な捜査と政治の介入によって、それはスキャンダラスな国家的事件となった。作者=歴史家は自ら調査を進め、被害者の生の物語を語り始める。そこから明らかになる「真実」とは――。メディシス賞、ル・モンド文学賞受賞作。フランスでテレビドラマ化。
独自のスタイルで歴史記述の新たな可能性を探究するイヴァン・ジャブロンカ。邦訳第三弾となる『歴史家と少女殺人事件――レティシアの物語』がこのたび刊行となりました。レティシア・ペレという18歳の女性が犠牲となった誘拐殺人事件を主題にした本作は、文学作品としても高い評価を受け、メディシス賞やル・モンド文学賞を受賞、フランスではテレビドラマ化も決定した話題作です。以下では、訳者あとがきを特別公開いたします。


フランス全土を揺るがした「三面記事」事件。誘拐、殺害、遺棄された18歳女性レティシアの人生。作家=歴史家の調査によって明らかになる「真実」とは。

本書は、Ivan Jablonka, Laëtitia ou la fin des hommes, Éditions du Seuil, 2016の全訳である。原題の直訳は『レティシアあるいは男性の終焉』であるが、邦題は編集部とも協議のうえ、日本の読者へのわかりやすさも考慮して『歴史家と少女殺人事件――レティシアの物語』とした。

著者のイヴァン・ジャブロンカはパリ第十三大学の教授であり、歴史記述の新たな可能性を探究する気鋭の歴史家である。著作としては、『私にはいなかった祖父母の歴史』(二〇一二)と『歴史は現代文学である』(二〇一四)がすでに日本語に訳されている。前者はアウシュヴィッツの強制収容所で亡くなった自らの祖父母の生涯を再構成する試みで、祖父母の物語と並行して歴史家自身の調査の過程が語られるという、独自の叙述スタイルがとられている。同書は学界から高い評価を受け、ギゾー賞、オーギュスタン・ティエリ賞、歴史書元老院賞を受賞した。後者は歴史記述に関する理論的考察で、今日歴史が科学と文学のあいだで陥っている閉塞状況を打破するために、両者の境界を越えた新たな叙述スタイルを創造することを提言する。

ジャブロンカはこれらの著作に引き続き本書を刊行した。二〇一一年、ナント近郊に住む十八歳の女性レティシアが誘拐・殺害され、遺体はばらばらにされて捨てられた。彼女は不遇な幼少期を送り、双子の姉ジェシカとともに養護施設に、さらに里親家庭に預けられていた。若い娘が惨たらしく殺されたこともあり、事件はフランス全土に大きな反響を引き起こした。さらに、当時の共和国大統領ニコラ・サルコジが、事件の要因として司法による受刑者の追跡調査の不備を批判し、それに反発した司法官たちが大規模なストライキを行ったことで、事件は行政と司法をめぐる大論争に発展した。加えて、レティシアの里親男性が、ジェシカを含む複数の里子女性に性的暴行をはたらいたとして告発されたことで、事件はさらにスキャンダラスなものとなった。こうしてこの事件は、二十一世紀初頭のフランスで最も世間を騒がせた「三面記事」事件となった。

ジャブロンカは、この事件を歴史研究の対象として取り上げると宣言する。トルーマン・カポーティ『冷血』、ノーマン・メイラー『死刑執行人の歌』など、三面記事事件を題材にした作品は数多くあるが、それらの中心人物はあくまで犯罪者自身である。彼らは稀に見る残虐な犯罪を行った者であり、そのことが彼らを特権的な関心の対象にまつり上げる。それに対して、ジャブロンカはあくまで被害者レティシアを中心に置く。彼女はたまたま犯罪の犠牲者となった無名の平凡な女性にすぎない。しかし、歴史的=社会学的な観点から見れば、彼女は、社会から疎外され暴力にさらされている多くの子供や女性の立場を体現しているのだ。

それゆえに、この事件を理解するためには、あらゆる社会的・政治的・文化的背景――公的扶助制度、司法制度、ジェンダーの問題、大西洋沿岸地域の産業構造、都市周辺地域の日常生活、若者の意識など――を把握する必要がある。ジャブロンカが最終的に解明しようとするのは、単なる三面記事事件の真相ではなく、事件を生み出した社会の抑圧的な構造そのものなのだ。その意味で本書は、ミクロな世界の分析を通じて社会全体を描こうとする、歴史におけるミクロストリア、社会科学における「厚い記述」の試みの一つとも考えられる。

本書は叙述形式においてもきわめて野心的である。すでに『私にはいなかった祖父母の歴史』は、複数の物語が並行して語られる特殊な構造になっていた。本書の叙述はさらに複雑になっており、そこでは主に(1)双子姉妹の誕生から事件に至るまでの物語と(2)事件発覚以後の捜査と裁判の経過が並行して語られるが、その合間合間に(3)著者自身による調査の過程が断片的に挿入され、さらに終盤には(4)捜査によって再構成された殺害の状況があらためて提示される。これが五十七の章に緻密に配分されることで、事件が重層的に浮かび上がる構造になっている。

本書は、犯罪捜査のドキュメンタリーとして読むことができる(そこには推理小説を読むような知的興奮も欠けていない)だけでなく、フランスの都市近郊地域についての社会学的分析としても、あるいは歴史家=社会学者による調査の報告としても、さらには主要人物が織りなす家族の物語としても、読むことができる。歴史の新たな可能性を切り拓いたこの野心的な試みは、文学的な観点からも高い評価を受け、二〇一六年のメディシス賞とル・モンド文学賞を受賞した。また、二〇一九年には本書をもとに、ジャン=グザヴィエ・ド・レストラード監督によるTVシリーズ『レティシア』(全六回)が制作された。

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ジャブロンカ氏は二〇一九年六月に初の来日を果たし、東京、名古屋、京都で講演会を行った。訳者は名古屋と京都に同行したが、講演会は非常に盛況で会場の反応も活発だった。氏と日本の現代社会や伝統文化について語り合ったことは楽しい思い出である。

本書は訳者にとってジャブロンカ氏の著書の二作目の翻訳となる。前の『歴史は現代文学である』が理論的な研究書であったのに対し、本書はより自由なスタイルで書かれている。司法文書からウェブサイトの投稿にいたる多様な文体を訳し分けるのは、困難だがやりがいのある仕事だった。特にレティシアの文章は、教育の不備から来る綴り間違いだらけで、それを示すためにことさらに拙い文章を用いた。

最後に、ジャブロンカ氏の最新刊『公正な男性』(二〇一九)を紹介しておきたい。同書は、人類学的・歴史的・社会的観点からフェミニズムの問題を扱った、四百ページを超える大部のエッセーである。同書は副題が「家父長制から新たな男性性へ」となっており、「男性の終焉」という副題を持つ本書の続編に位置づけられる。そこには著者の、女性の地位をめぐる省察のさらなる深化と、社会を変革しようとする一貫した姿勢が認められる。

[書き手]真野 倫平(南山大学外国語学部教授)
歴史家と少女殺人事件―レティシアの物語― / イヴァン・ジャブロンカ
歴史家と少女殺人事件―レティシアの物語―
  • 著者:イヴァン・ジャブロンカ
  • 翻訳:真野 倫平
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(400ページ)
  • 発売日:2020-07-03
  • ISBN-10:4815809933
  • ISBN-13:978-4815809935
内容紹介:
18歳の女性が誘拐・殺害された「三面記事」事件。だが、大規模な捜査と政治の介入によって、それはスキャンダラスな国家的事件となった。作者=歴史家は自ら調査を進め、被害者の生の物語を語り始める。そこから明らかになる「真実」とは――。メディシス賞、ル・モンド文学賞受賞作。フランスでテレビドラマ化。

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