書評

『歴史は現代文学である―社会科学のためのマニフェスト―』(名古屋大学出版会)

  • 2019/06/20
歴史は現代文学である―社会科学のためのマニフェスト― / イヴァン・ジャブロンカ
歴史は現代文学である―社会科学のためのマニフェスト―
  • 著者:イヴァン・ジャブロンカ
  • 翻訳:真野 倫平
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(320ページ)
  • 発売日:2018-05-10
  • ISBN:4815809089
内容紹介:
真実と物語のあいだで揺れ動き、その意義を問われてきた歴史。ポストモダニズムの懐疑を乗り越えた後、いかにして「歴史の論理」を立て直すことができるのか。自らの実践に基づき、社会科学と文学の手法を和解させ、歴史記述を刷新するための挑戦の書。
パリ第13大学教授、フランス歴史学界の最前線で活躍するイヴァン・ジャブロンカ氏(45)が、2019年6月に来日し、東京、名古屋、京都でイベントを開催する。24日に恵比寿・日仏会館で行われる講演会には、作家の小野正嗣氏らも登壇を予定しており、「社会科学における創作」をテーマにした熱い議論に注目が集まる。名古屋(26日、南山大学)、京都(27日、アンスティチュ・フランセ関西)では「イヴァン・ジャブロンカ 『私にはいなかった祖父母の歴史』を語る」と題したトークイベントが開催される予定だ。

アウシュヴィッツ強制収容所で亡くなった自らの祖父母の伝記『私にはいなかった祖父母の歴史』でアカデミー・フランセーズ・ギゾー賞、歴史書元老院賞、オーギュスタン・ティエリ賞を受賞したジャブロンカ。近年では、フランスで実際に起きた当時18歳の少女誘拐殺人事件を題材にしたLaëtitia(2016年、邦訳近刊)がメディシス賞、ル・モンド文学賞を受賞、フランスでもっとも権威のある文学賞・ゴンクール賞にもノミネートされるなど、その独創的なスタイルは歴史と文学の両方面で高い評価を得ている。

新世代の歴史家ジャブロンカは何を目指して創作活動に取り組んでいるのか。彼自身による理論篇であり、刊行後に賛否両論の議論をまき起きした著作『歴史は現代文学である』について、ここでは早稲田大学教授・鹿島徹氏の書評からそのエッセンスをご紹介する。

「方法としてのフィクション」を提唱し雑種的ともいえる書法を提示
「文学でもあり社会科学でもある歴史」のための方法的基礎を探り当てようとする

この本を読みながらぼくは久しぶりに、山崎朋子『サンダカン八番娼館』(一九七二年)を思い出していた。紀行文のように構成され、ドキュメンタリーのように書かれて、熊井啓監督により映画化されもした、あの底辺女性史の「研究書」を。

ゆえなきことではない。『歴史は現代文学である』というタイトルを見るかぎりでは、これまた新手のヘイドン・ホワイト流「歴史=フィクション」論が現われた。だれもがそのように思うだろう。ところがそうではないのだ。たんなるフィクションと歴史のあいだに明確な境界があることを明らかにしたうえで、歴史家にむかってこう呼びかける。十九世紀に行われて今もなお続く〈歴史〉対〈文学〉の構図を疑問に付し、文学に学んでより反省的な、より市民に開かれた「書法」を編み出してゆこう。そのことによって「呑み込まれたもの、忘れられたものの痕跡についての調査」という歴史の使命をまっとうしようではないか、と。

著者のジャブロンカは、『私にはいなかった祖父母の歴史』(二〇一二年)の翻訳によってすでに日本の読書界に知られている。アウシュヴィッツで死んだ祖父母についての歴史記述を、文学的ともいえる筆法で展開した、その独自のスタイルを本書でみずから埋論づけてゆく。四十五歳という年齢、パリ第13大学で現代史を教えるというポジションをどう受け取るべきなのかはぼくにはわからないが、フランス歴史学界の最前線で活躍する「現場の歴史研究者」の手になる方法論的著作であることはたしかだろう。

さて右のような呼びかけを意図する本書の考察は、文学の通念についての再検討を当然にも伴っている。

文学がたんなるフィクション=虚構ではなく、現実の認識を指向するものであること。それはとりわけプリーモ・レーヴィら〈ショアー〉を経験した作家たちの作品を見れば明らかではないか。ニ十世紀後半を代表する文学作品は、歴史学をはじめとした社会科学を不可分の要素として成立しているのだ。本書表題に言う「現代文学(同時代文学)」とは、このような〈アウシュヴィッツ以降の文学〉を念頭に置いたものにちがいない。現在の歴史学もまたこれらの作品群と指向を同じくしていると見定め、歴史と文学にそれぞれ潜在する可能性を開示して、雑種的ともいえる書法を歴史家おのおのが構想するようにと語りかけるのだ。

とはいえ本書はたんなる着想と提言の書ではない。

あまりにも豊富な実例――本書が例示に用いている作品はじつに三百点近くにおよぶ――のため、通読するのにいささか骨が折れるほどだが、それだけに得るところも多いしかたで、歴史と文学が古代からどのように区別/関係づけられ、緊張関係に置かれていったのかを、丹念にたどってゆく。一八世紀末に歴史学が科学として自立した経緯を、さらにはここがとりわけて重要なのだが、二十世紀後半の「言語論的転回」――それにたいする反動として歴史家が文学に距離をとり、書法にますます無関心となるにいたった経緯を描き出す。

〈ポストモダン以降〉などとも呼ばれる、そのような書法への無関心が支配する歴史学の状況を見据えながら、本書は「文学でもあり社会科学でもある歴史」のための方法的基礎を探り当てようとする。

そこに提示される手法は、しかしけっして奇矯なものではない。

歴史学とは社会科学であり、つまりは人間の行為を検証・立証・比較・批判といった手続きによって説明するものである。その点を確認したうえで「方法としてのフィクション」なるものが提唱されてゆく。たとえば現実過程の対照軸となる非現実の因果連関(ヴェーバー)、「老いた女王」といったメタファー(ブローデル『地中海』)、概念史のメタ力テゴリーとしての「経験の空間」と「予期の地平」(コゼレク)。これら理解と説明のための装置は、いうまでもなく現実にそのまま見いだされるものではない。歴史家が創り出したフィクション(fictio 形成物)、ただし論理によって操作され管理されたフィクションである。これはすでに多くの歴史家によって用いられてきた手法を、方法論的に自覚化したものにほかならない。さらには、歴史が文学から積極的に学びうる書法といえども、とりたてて新奇なものではない。いきなり核心から始めること、突然終了すること、脱線やジグザグの進行、結末を与えないこと、スリラーのような展開などがそれだ。

だがこれらを複合的なしかたで駆使し、ひとつのテクストのなかに共存させながら、調査の行程を試行錯誤の歩みとして物語ってゆく。そのためにも歴史家の「私」を文中に導入して、書き手がどこから語っているのか、どのような立場に置かれているのかを明示する。これこそが、忘れられ呑み込まれたものの痕跡を調査するその足取りをそのまま歴史記述に組み込み、さらなる議論への呼びかけを行なう手立てとして、本書で提示される書法の核心であるように思う。

こうした本書を読むなかでぼくが想い起していたもう一冊の本は、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』(一九七四年)である。日本社会においても一九七〇~八〇年代の「社会史」において、著者の探究過程を提示して読者に語りかけることにより、広く一般読書界に受け入れられた歴史書がいくつもあったのだ。

ではその後はどうなったのだろう。日本歴史学界の専門研究者のおおかたは、ふたたびアカデミズムのディシプリンへと立ち戻っていったのだろうか。もっぱら同業の研究者を想定読者とする専門研究の生産・発信を歴史家の第一の任務とするような、そうした地点にまで撤退したのだろうか。もし現状がそのようなものであり、しかもそれが大学と学界という制度に守られて安定的に持続しているのだとするなら、少なくとも当面は歴史の書法に大きな変化が生じることはないだろう。

もっとも、本書の問題提起がそうした歴史家一人ひとりに届くとするならば、話はまた別ということになるわけなのだが。

[書き手]鹿島徹(哲学・早稲田大学教授)
歴史は現代文学である―社会科学のためのマニフェスト― / イヴァン・ジャブロンカ
歴史は現代文学である―社会科学のためのマニフェスト―
  • 著者:イヴァン・ジャブロンカ
  • 翻訳:真野 倫平
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(320ページ)
  • 発売日:2018-05-10
  • ISBN:4815809089
内容紹介:
真実と物語のあいだで揺れ動き、その意義を問われてきた歴史。ポストモダニズムの懐疑を乗り越えた後、いかにして「歴史の論理」を立て直すことができるのか。自らの実践に基づき、社会科学と文学の手法を和解させ、歴史記述を刷新するための挑戦の書。

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週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。

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