後書き

『英国レシピと暮らしの文化史:家庭医学、科学、日常生活の知恵』(原書房)

  • 2020/08/17
英国レシピと暮らしの文化史:家庭医学、科学、日常生活の知恵 / エレイン・レオン
英国レシピと暮らしの文化史:家庭医学、科学、日常生活の知恵
  • 著者:エレイン・レオン
  • 翻訳:村山 美雪
  • 出版社:原書房
  • 装丁:単行本(312ページ)
  • 発売日:2020-07-18
  • ISBN-10:4562057785
  • ISBN-13:978-4562057788
内容紹介:
料理だけではない! 美味しいエールの醸造法から疫病から身を守る家庭薬の実証試験、王様に贈る上級メロンの栽培方法まで。17世紀英国の上流家庭で貴重な財産とされた「レシピ帳」。それは知の収集と緻密な家庭戦略だった。
17世紀、英国の家庭で代々受け継がれた「レシピ帳」。それは料理の作り方だけにとどまりません。
王様に贈る上級メロンの栽培方法から痩せる飲み薬、疫病に効くケーキ、賢者の石の作り方、蟹の爪入り至極の強壮剤……日々、こつこつと情報を収集しては実験を重ね、効果のほどをレシピに綴っていた、英国の紳士淑女たち。
レシピ帳は膨大な知の集積であり、財産であり、緻密な家庭戦略だったのです。
科学の発展にも寄与した「家庭の科学」の歴史を独自の視点からひもといた『英国レシピと暮らしの文化史』が翻訳されました。「マーガレット・W・ロシター科学の女性史賞」も受賞した本書の「訳者あとがき」を抜粋して公開します。

レシピ作りに熱狂した英国の紳士淑女たち

ひと口にレシピと言っても、料理、健康、手芸、部屋の片づけなど、いまや暮らしを彩る何かを形作るために誰もがまず頼るものとして当たり前のように使われているけれど、その始まりは古代にまで遡るという。
それほどの昔から、人々は自分の備忘録として、必要としている誰かに伝えるために、さらには後世への伝承のためにも、作り方や方式をレシピとして残してきた。
本書は、そうしたレシピを研究する歴史学者がとりわけ史料の豊富な、おもに十七世紀英国の膨大な量の手稿と書籍のレシピから人々の暮らしを読み解いた記録だ。

むろんこれまでも、英国伝統の菓子や料理や作法のレシピ本といったものは日本でも数多く紹介されているが、あらゆる邸宅で好きなものを味わいたくて、あるいは家族の不調を治そうと総出でレシピを活用した本書の‶実録〟は親しみやすい生活感にあふれ、人生の機微をも映しだしている。
小説や映画やTVドラマで優美に描かれていた大きな屋敷の女主人が実際に使っていたレシピ帳には、豪華な料理を食卓に並べるだけでなく、一族や使用人たちの健康を守り、庭園を華やかに彩ろうとする努力や、贈り物のレシピを活用して夫を出世させようとする野望までもが記録されていた。

しかも当時の英国で日々の暮らしにレシピ帳を役立てていたのは女性たちばかりではない。
男性たちも、旅先の旅籠屋でエールを飲みながら、または訪問した親族宅の晩餐の席で耳寄りな情報を集めてきては、私邸の図書室や厨房を試験室にしてレシピ作りに励んだ。
のんびりと狩猟や社交を楽しんでいたように思われがちな上流紳士たちが、じつは美味なエール醸造への好奇心から、時には自身や家族の薬作りのためにも、調査と実験と記録にせっせと取り組んでいた奮闘ぶりには目を瞠(みは)るものがある。

あの有名貴族も登場。レシピ帳の作り手たち

本書で紹介される情報満載のレシピ帳の作り手たちはことに多彩な顔ぶれだ。
王室と関わりが深く、フランス語やイタリア語が堪能で翻訳者としても活躍した第二代モンマス伯爵ヘンリー・ケアリー、いまも絵画に残るケント、プラックリーの麗しき邸宅スレンデンハウスに住んでいた准男爵サー・エドワード・デリング、アン女王時代の著名な政治家で著述家の初代ボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョンの祖母にあたり、広大な所領リディアード・パークの女主人ながら園芸家、植物学者だったとも言われるジョアンナ・シンジョン、大使の夫に同行して各国の料理を見聞し、未完のレシピながらアイスクリームの作り方をヨーロッパで最初に記録したとされるレディ・アン・ファンショーなどなど。
研究意欲あふれるこの人々はまた、発明家としても名を馳せていたロンドンの商人ヒュー・プラットや、現代の日本ではアロマテラピー検定でもすっかりお馴染みの本草家たち、ジョン・ジェラードやニコラス・カルペパーらの当時人気を博した書籍からも知識を得ていた。

ペストの流行と懸命に闘った家族の歴史

当時レシピ帳を作成した人々が料理にもまして医療情報の収集や家庭薬作りに熱意を傾けていた様子を見ると、その時代背景も考えずにはいられない。
1665年にペストの流行に襲われたロンドンの惨禍を描いたダニエル・デフォー『ペスト』の訳者、平井正穂氏の解説によれば、1683年に出たある冊子には過去百年のあいだにおよそ20年に一度のわりでロンドンにペストが流行し、そのたびに市民の五分の一が命を落としたと書かれていたという。
そのように身分や貧富のべつなく、裕福な上流層でもつねに疫病の脅威に晒されていた時代に、本書に登場する大邸宅の住人たちが懸命に医療のレシピを模索し、生きられる喜びを表現するかのようにレシピとともに家族史も綴っていた姿は、奇しくもいま世界じゅうで誰もが同じ感染症を恐れなければならない現状のわたしたちの胸に静かに響く。
数百年の時を越えて、著者が年月をかけ繙いた研究成果から、時代も国も社会環境も異なる人々が現代のわたしたちと同じように日々を慈しんでいた暮らしぶりをご覧いただければ幸いだ。

[書き手]村山美雪(翻訳家)
英国レシピと暮らしの文化史:家庭医学、科学、日常生活の知恵 / エレイン・レオン
英国レシピと暮らしの文化史:家庭医学、科学、日常生活の知恵
  • 著者:エレイン・レオン
  • 翻訳:村山 美雪
  • 出版社:原書房
  • 装丁:単行本(312ページ)
  • 発売日:2020-07-18
  • ISBN-10:4562057785
  • ISBN-13:978-4562057788
内容紹介:
料理だけではない! 美味しいエールの醸造法から疫病から身を守る家庭薬の実証試験、王様に贈る上級メロンの栽培方法まで。17世紀英国の上流家庭で貴重な財産とされた「レシピ帳」。それは知の収集と緻密な家庭戦略だった。

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