書評
『博覧会の政治学―まなざしの近代』(中央公論社)
今日、我々は自由な意志に基づいて日常生活を営んでいるかに見えて、その実、社会の隅々にまで張り巡らされたもろもろのシステムに無意識をがんじがらめに縛られている。これらのシステムは、たかだか百五十年ほど前に社会の様々な分野で機能しはじめたにすぎないが、その緊縛の力は強烈で、容易なことでは網の目から抜け出すことはできない。というのも、いったん成立してしまったシステムというものは必ず自己保存・防衛本能をもつようになるから、システム自体に含まれる矛盾が顕在化し、自壊作用を起こさない限りは増殖をやめないからである。
吉見俊哉氏は、こうしたシステムのひとつとして「まなざし」を措定し、その「まなざし」のクロスする場として博覧会を取り上げようとする。なぜならば博覧会こそは、近代の人間たちが差別化のまなざしを学んでいった特権的な場であり、博覧会に内存するエネルギー(フーコーの言う権力)の機能様態を検討することは、即、まなざしというシステムの解明に通じるからである。したがって本書の目的は「国家や企業が博覧会において、いかに帝国主義や消費のエネルギーを大衆に押しつけていったかということではなく、博覧会という場が、その言説=空間的な構成において、そこに蝟集(いしゅう)した人々の世界にかかわる仕方をどう構造化していったのか」を見ていくことにある。
吉見氏は、そのために、欧米の万国博覧会と日本の内国博覧会の系譜を「帝国主義のプロパガンダ装置としての博覧会、消費文化の広告装置としての博覧会、大衆娯楽的な見世物としての博覧会」という三つの論点から取り上げ、これを「まなざし」のベクトルの交差という観点から分析していくが、膨大な資料を駆使しているにもかかわらず、その語り口は滑らかで読者をあきさせない。
とりわけ、第三章「文明開化と博覧会」、第五章「帝国主義の祭典」において、帝国主義的なまなざしを分析する個所は読みごたえがある。すなわち、万博を見て彼我の差を思い知らされた日本人は、帝国主義的なまなざしによって眺められる好奇の対象から出発しながら、やがてそのまなざしの構造を摂取し、新たに獲得した植民地へと反転させていくが、これはまさに、現在もなお、政治経済文化のあらゆる面で日本の対欧米、対アジアの態度を規定している構造にほかならない。
いっぽう、欧米の万国博覧会について論じた第一章「水晶宮の誕生」と、第二章「博覧会都市の形成」および、大正以後の国内の博覧会を扱った第四章「演出される消費文化」は、万博によって生まれた商品のディスプレイ戦略が、やがてデパートや広告メディアに同心円的に拡散していく過程を記述したもので、博覧会が消費社会の基本構造を作り出していくプロセスが、あらゆる資料を用いて浮き彫りにされている。ただ、欧米の万博に関する部分は、あらゆる議論を参照しようとする姿勢が強すぎるせいか、独創的な観点を打ち出すまでにはいたっていない。博覧会のまなざしをいうのであれば、商品とまなざしのダイナミックな弁証法を、博覧会の誕生の時点で考察すべきであると思う。
しかし、いずれにしても、博覧会をまなざしのベクトルの交錯する場として捕える視座は刺激的で、博覧会がまぎれもなく近代を支える最大のシステムのひとつであることを思いしらせてくれる。本年の収穫に数えていい力作である。
【この書評が収録されている書籍】
 
 吉見俊哉氏は、こうしたシステムのひとつとして「まなざし」を措定し、その「まなざし」のクロスする場として博覧会を取り上げようとする。なぜならば博覧会こそは、近代の人間たちが差別化のまなざしを学んでいった特権的な場であり、博覧会に内存するエネルギー(フーコーの言う権力)の機能様態を検討することは、即、まなざしというシステムの解明に通じるからである。したがって本書の目的は「国家や企業が博覧会において、いかに帝国主義や消費のエネルギーを大衆に押しつけていったかということではなく、博覧会という場が、その言説=空間的な構成において、そこに蝟集(いしゅう)した人々の世界にかかわる仕方をどう構造化していったのか」を見ていくことにある。
吉見氏は、そのために、欧米の万国博覧会と日本の内国博覧会の系譜を「帝国主義のプロパガンダ装置としての博覧会、消費文化の広告装置としての博覧会、大衆娯楽的な見世物としての博覧会」という三つの論点から取り上げ、これを「まなざし」のベクトルの交差という観点から分析していくが、膨大な資料を駆使しているにもかかわらず、その語り口は滑らかで読者をあきさせない。
とりわけ、第三章「文明開化と博覧会」、第五章「帝国主義の祭典」において、帝国主義的なまなざしを分析する個所は読みごたえがある。すなわち、万博を見て彼我の差を思い知らされた日本人は、帝国主義的なまなざしによって眺められる好奇の対象から出発しながら、やがてそのまなざしの構造を摂取し、新たに獲得した植民地へと反転させていくが、これはまさに、現在もなお、政治経済文化のあらゆる面で日本の対欧米、対アジアの態度を規定している構造にほかならない。
いっぽう、欧米の万国博覧会について論じた第一章「水晶宮の誕生」と、第二章「博覧会都市の形成」および、大正以後の国内の博覧会を扱った第四章「演出される消費文化」は、万博によって生まれた商品のディスプレイ戦略が、やがてデパートや広告メディアに同心円的に拡散していく過程を記述したもので、博覧会が消費社会の基本構造を作り出していくプロセスが、あらゆる資料を用いて浮き彫りにされている。ただ、欧米の万博に関する部分は、あらゆる議論を参照しようとする姿勢が強すぎるせいか、独創的な観点を打ち出すまでにはいたっていない。博覧会のまなざしをいうのであれば、商品とまなざしのダイナミックな弁証法を、博覧会の誕生の時点で考察すべきであると思う。
しかし、いずれにしても、博覧会をまなざしのベクトルの交錯する場として捕える視座は刺激的で、博覧会がまぎれもなく近代を支える最大のシステムのひとつであることを思いしらせてくれる。本年の収穫に数えていい力作である。
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