解説

『[ヴィジュアル注釈版]ピーター・パン 上』(原書房)

  • 2020/08/21
[ヴィジュアル注釈版]ピーター・パン 上 / J・M・バリー
[ヴィジュアル注釈版]ピーター・パン 上
  • 著者:J・M・バリー
  • 翻訳:伊藤 はるみ
  • 編集:マリア・タタール
  • 監修:川端 有子
  • 出版社:原書房
  • 装丁:単行本(286ページ)
  • 発売日:2020-07-09
  • ISBN-10:4562057734
  • ISBN-13:978-4562057733
内容紹介:
不朽の名作『ピーター・パン』に児童文学研究の権威が詳細な注をほどこし、作品背景やバリーについて、関連作品などをわかりやすくまとめた決定版。さまざまな読みや象徴性、その現代性などにも言及。
ピーター・パン――その名前は誰もが知っています。
けれどもあなたは本当のピーター・パンの物語を知っていますか?
「ネバー・ランド」が生まれたその背景、「ピーター・パン」の原形となった作品からさまざまなイラストまで、永遠のベストセラーの魅力を詳細な注とともに余すところなく伝える新訳決定版『[ヴィジュアル注釈版]ピーター・パン』(上下)から、日本語版監修者・川端有子の「読者への案内―日本語版序文」を特別公開する。

大人をにらみつける子ども

非常に有名な児童文学でありながら、じつは中身があまり知られていないものは驚くほどたくさんある。
『不思議の国のアリス』が不条理極まりない世界を描いていることや、『風に乗ってきたメアリー・ポピンズ』の主人公が、つんとしてぶあいそうで怒りっぽいことや、『くまのプーさん』には新参者に対するいじめが描かれていることなどは、おそらく題名だけ知っている人々には驚きであろう。
そのなかでもこの『ピーター・パン』は、もっとも誤解されている、もしくは知られてすらいない物語なのではないか、とわたしはこの『注釈版ピーター・パン』を読んで思っている。

ジェイムズ・マシュー・バリーが創作した「ピーター・パンもの」が『小さな白い鳥』の一部から始まり、小説版でも二通り(『ケンジントン公園のピーター・パン』と『ピーター・パンとウェンディ』)あること、戯曲として出版されたが上演版はそのつど違っていたことを知っていたにもかかわらず、読み直すたびに新しい側面に気づかされるというのが、この作品の特徴だ。

おそらくこの本を手に取る人にとって、ピーター・パンのイメージといえば、緑の服に身を包み、羽のついた帽子をかぶって短剣を腰に差して、ティンカー・ベルと空を飛ぶ赤毛の少年であるにちがいない。
バリーの創作したピーターが、樹脂と枯れ葉でできた衣服をまとい、まだ生え変わらない乳歯をきりきりとかんで、大人をにらみつける子どもであることは、無視されているか、知られていないか、忘れ去られている。
ピーター・パンが、バリーの死んだ兄の面影を宿していることや、バリーが親しかった少年たちとの遊びの中から生まれてきた存在であること、片方では牧神と子どもとアルカディアの世界の裏に、ディオニソス的な混沌と狂乱と死のイメージを秘めていることが明かされる。
また、この奇妙な物語に魅せられた画家たちの筆によって描かれた多様な姿とその変遷を、この分厚い本から知ることができる。

スコットランドのキリミュアで生まれたバリーは、ロンドンで作家・劇作家として活躍した。
その一風変わった生涯と、彼の母、妻、親しくしていた弁護士夫妻、その子どもたちとのかかわり、文学史上の位置づけに始まり、テキストはもっとも有名な『ピーター・パンとウェンディ』、アーサー・ラッカムのイラストレーションをあしらった『ケンジントン公園のピーター・パン』、バリー自身が書いた映画化のためのシナリオ、二部しか書かれなかった「ブラックレイク島少年漂流記」の目次(これがもっとも古い『ピーター・パン』の原型である)などを収録している。そしてそれらには編著者マリア・タタールによる詳細な注が付されている。
さらに同時代の批評、舞台版への反応、映画の様々なバージョンの解説に、他の作家による続編、改変、スピンオフなどのリストを含め、ピーター・パンについてのあらゆる言説に、絵画と写真によるイメージが盛り込まれた、豪華な一冊なのである。

そういった周辺の知識を得て再びバリーのテキストに対峙してみると、知っていたはずの物語から、今まで読み飛ばしていた詳細が、新たに首をもたげてくる。
年を取らないということは永遠の現在を生きることで、ピーターには過去も未来も無意味だということとか、水夫長スミーがミシンをあやつる縫物上手であること、フック船長の黒い巻き毛が、ろうそくにたとえられる縦ロール仕様だったことなど。
誰もがみんな子どもで、ごっこ遊びとほんものの区別がないネバーランドの設定、そして読者を操作し、おちょくり、共感を強要する、変化自在な語り手の存在。

編著者のマリア・タタールは、ハーヴァード大学でドイツ文学、昔話と児童文学を教える教授で、著書に『グリム童話 その隠されたメッセージ』などがある。『注釈版ピーター・パン』の執筆と編集のため、イェール大学バイネッケ図書館のアーカイブで調査・研究を行い、残されているバリーの手紙やメモを解読し、今まで知られていなかった事実や隠されていた文書を発見したことは、この本の中にも詳しく語られている。
彼女自身は、子どものころテレビで見た極彩色のミュージカルが、もっとも強い印象を残したと語っている。どんなひとも初めて見た画像の強い印象に囚われると、その印象をアップデートしないまま過ごしてしまいがちだが、それでは『ピーター・パン』の多彩さがもったいない。
ベッドフォードやランサムの挿絵をはじめ、伝記からの写真や、ピーター・パン・グッズに至るまで、この一冊には視覚的にも豊富に、ピーター・パンのバリエーションが収められている。おそらく、それをきっかけに読者は自分自身のもつピーター・パン経験を更新し、敷衍し、回想することになるだろう。

私自身の思い出に残るのは、たとえば1999年にイギリスで上演されたアトランタバレエ団の『ピーター・パン』。これは数えきれないピーター・パンのバレエ版の一つに過ぎないが、それをこの目で見た私にとってはかけがえのない一つの経験である。
その中の、優雅で威厳に満ちたインディアンの王女、タイガー・リリーの描き方は印象的であった。そしてピーター役を演じた中国系の男性ダンサーの、中性的な魅力も。
同じ年の暮れにウィンブルドンの子ども劇場で見たパントマイム版というのもあった。
チョコレートの会社がスポンサーになり、子どもたちにお菓子を配り、着ぐるみのワニが大人気を博していた。ピーター役を演じるのは、もと有名子役の女性だということだった。
日本でのミュージカル版でもそうだが、伝統的に舞台でのピーター役は女性が演じることが多い。それはなぜなのか、ということを様々な面から探っていく研究も可能であろう。
フック船長とダーリング氏の二面性はどう解釈できるか、またはフック船長の妙な女性性についてはどうなのか。

マリア・タタールも語っている通り、この注釈付きの本を読んだあと、読者は新たな見地を得てより『ピーター・パン』の世界をより楽しみ、より多方向から考えられるようになるだろう。
本を読むことの、何よりの楽しみではないだろうか。

[書き手]川端有子(児童文学研究者)
[ヴィジュアル注釈版]ピーター・パン 上 / J・M・バリー
[ヴィジュアル注釈版]ピーター・パン 上
  • 著者:J・M・バリー
  • 翻訳:伊藤 はるみ
  • 編集:マリア・タタール
  • 監修:川端 有子
  • 出版社:原書房
  • 装丁:単行本(286ページ)
  • 発売日:2020-07-09
  • ISBN-10:4562057734
  • ISBN-13:978-4562057733
内容紹介:
不朽の名作『ピーター・パン』に児童文学研究の権威が詳細な注をほどこし、作品背景やバリーについて、関連作品などをわかりやすくまとめた決定版。さまざまな読みや象徴性、その現代性などにも言及。

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