書評

『わたしの中の遠い夏』(新宿書房)

  • 2021/09/02
わたしの中の遠い夏 / アニカ トール
わたしの中の遠い夏
  • 著者:アニカ トール
  • 翻訳:菱木 晃子
  • 出版社:新宿書房
  • 装丁:単行本(335ページ)
  • 発売日:2011-06-01
  • ISBN-10:4880084174
  • ISBN-13:978-4880084176
内容紹介:
1976年夏。ストックホルム郊外の湖畔に建つ、白い「家」。共同生活を送る、三組の若いカップルとひとりの青年。青年に思いを寄せたマリーエ。だが彼女は、スタファンと結婚する…。それから三十… もっと読む
1976年夏。ストックホルム郊外の湖畔に建つ、白い「家」。共同生活を送る、三組の若いカップルとひとりの青年。青年に思いを寄せたマリーエ。だが彼女は、スタファンと結婚する…。それから三十年の歳月が流れたある朝、新聞の赴報を目にし、マリーエは動揺する。そこには、あの夏、あの「家」でともに過ごした青年の名があった。彼が撮った映像から、マリーエは過去の記憶をたぐり寄せようとする。古い権威が崩れ、自由を手にしたかに見えた世代は今…。

若かりし日々の鮮やかな記憶と真実

マリーエというスウェーデン人女性がいる。職業は国語教師。スタファンという名の夫は医師で、二人のあいだにはハンナという娘と、ヨエルという息子がいるのだが、どちらもすでに家をでている。だからマリーエとスタファンは二人暮しだ。経済的な不安はないし、夫婦仲も、決して悪くない。

ある朝、映画監督の死亡記事を、マリーエが新聞でみつける。そこから物語が始まる。死んだ映画監督ロニー・ベルイルンドは、かつて、マリーエとスタファンの共通の友人だった。マリーエにとって、友情とばかりは言いきれない感情をかき立てられた男性でもあった。

友情とばかりは言いきれない感情、などというまわりくどい言い方をなぜしたかというと――この本の帯には「実らぬ『恋』」と大きな字で書いてあるし、カバー袖にも「思いを寄せた」と書いてあるのに――、恋情、と言ってしまうと、この小説が誤解される気がするからだ。

確かにマリーエは、三十年も疎遠になっていたロニーのお葬式にでかけて行くし、彼の周辺の人から話を聞いたり、思い出の場所を訪ねたりする。けれどそれは、失われたロニーが恋しいからではなく、失われた時代や理想、若さへの驚きからだ。

驚き、という言葉がたぶんふさわしいと思う。年齢を重ね、意識しようとしまいと選択を重ね、ふと気づくと、あるときある場所にいる自分に、人は、どうすれば驚かずにいられるだろう。自分の未来が過去より厳然と短くなったとき、成功とか失敗とか、後悔とか満足とかとはいっそ何の関係もなく、愕然として途方に暮れるのではないだろうか。どうして僕はこんなところに、というのはブルース・チャトウィンの気持ちのいい旅行記のタイトルだが、何かそのような感じ。この小説にはマリーエのその揺れが、克明に、でもおもしろいほど客観的に描写されている。

一九七〇年代、ストックホルム郊外の湖畔の一軒の家に、マリーエとスタファンを含む三組のカップルが共同生活をしていた。政治について議論し、いままさに社会は変りつつあるのだと確信し、左翼系の団体に所属したり、しないまでも何らかの運動に身を投じたりして、真摯な理想を持って暮していた。そこにロニーが登場する。当時からカメラ小僧(というか、カメラ青年)だったロニーは、彼らの日常をビデオテープに収めているのだが、その映像およびマリーエの回想を通して語られる過去が、ほんとうにみずみずしい。時間、光と影、記憶と真実。この若者たちの、何と自信に満ちていることか。

湖畔の家は、現在ピーアとトールビョルン夫婦が、別荘として所有している。かつて共同生活をしていた三組のカップルのうちの一組だ。時間は、人々の上に流れるのとおなじように、家の上にもまた流れる。家の変遷が、この小説の読みどころの一つでもある。

三十年前には「資本主義的国家機能を破壊したいと思っていた」ピーアとトールビョルンだが、いまやピーアはスウェーデン・テレビの管理職に就き、トールビョルンは労働市場省の事務官をしている。もう一組のカップル、モニカとエーリックがどうなったかも、読者としては当然気になる。ロニーのビデオテープやマリーエの回想によって、私たちは若かりし日々の彼らを、ほとんど自分の昔の友達みたいに感じてしまうからだ。そこに描かれる遠い日のモニカは、大きなお腹を抱えた妊婦だ。感情の輪郭のはっきりした、やや不安定だがあかるくて意志の強い、人を惹きつけずにはおかない娘で、その姿は、過去だとわかっているが故に一層鮮やかに、魅力的に見える。

マリーエはピーアに鍵を借りて、なつかしい湖畔の家に一人ででかける。ロニーが死んで、突然過去を紐解こうとする妻を、スタファンは訝(いぶか)しみ、疑う。マリーエの正直さは、すがすがしいと同時に痛々しい。夫婦のあいだに広がる波紋は、彼女の正直さのせいだとも言える。

物語は、そうやって過去と現在を往き来しつつ進む。語り手はマリーエなので、一人の女性の人生があぶりだされもするのだが、そこにはもっと広く遠いもの――他の人たちの人生、社会、時代、それに歴史――が、切り離せないものとして鮮烈にある。ところどころに差挟まれる、ロニーの「未完作品」である兄弟の物語が、小説に、控えめながら重層的に、ミステリーの要素を添えている。

布にたとえるなら麻、もしくは目のつまったワッフル地の木綿、といった手触りの、アニカ・トールの文章は読んでいて小気味いい。小説の文章というものは、理性的であって初めて詩的にもなり得るのだ、ということがよくわかる。スウェーデンという国の風景や、日常生活の色や音、会話の端々にのぞく人間の内面といったあれこれが、さりげなくも的確に描写され、この味わい深い小説を支えている。
わたしの中の遠い夏 / アニカ トール
わたしの中の遠い夏
  • 著者:アニカ トール
  • 翻訳:菱木 晃子
  • 出版社:新宿書房
  • 装丁:単行本(335ページ)
  • 発売日:2011-06-01
  • ISBN-10:4880084174
  • ISBN-13:978-4880084176
内容紹介:
1976年夏。ストックホルム郊外の湖畔に建つ、白い「家」。共同生活を送る、三組の若いカップルとひとりの青年。青年に思いを寄せたマリーエ。だが彼女は、スタファンと結婚する…。それから三十… もっと読む
1976年夏。ストックホルム郊外の湖畔に建つ、白い「家」。共同生活を送る、三組の若いカップルとひとりの青年。青年に思いを寄せたマリーエ。だが彼女は、スタファンと結婚する…。それから三十年の歳月が流れたある朝、新聞の赴報を目にし、マリーエは動揺する。そこには、あの夏、あの「家」でともに過ごした青年の名があった。彼が撮った映像から、マリーエは過去の記憶をたぐり寄せようとする。古い権威が崩れ、自由を手にしたかに見えた世代は今…。

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毎日新聞

毎日新聞 2011.08.14

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