学生に伝えた言葉の生成的経験
官僚による大臣の答弁原稿から企業の謝罪広告まで(ひょっとしたら学校での「自由作文」も?)、だれに宛てて書かれているのかが不明な文章が溢(あふ)れている。ネット上では、暗闇のなかから礫(つぶて)のように言葉が投げつけられる。なんとも寒々とした光景だ。言葉の起源はやるせない歌や叫びなのか、あるいは痛いばかりの祈りや願いなのか、よくわからないが、少なくともだれかへの呼びかけであったことはまちがいない。「どれほど非論理的であっても、聞き取りにくくても、知らない言葉がたくさん出てきても、『届く言葉』は届く」。このことの意味をきちんと伝えるべく、ウチダは大学教師としての最後のこの講義で、学生たちのこころの襞(ひだ)に沁(し)み込んでゆくような言葉を、手を替え品を替え紡ぎだす。
ウチダは、言葉が届くということでもっとも重要なことは、言語における〈創造性〉であるという。そしてそれは「読み手に対する懇請の強度の関数」であるとも。
言葉をなんとしても届けたいという切迫、それがあれば当然、あれやこれや情理を尽くして語ろうとするものだ。ウチダ自身、エマニュエル・レヴィナスの難解な文章にはじめてふれたとき、「ほとんど襟首をつかまれて、『頼む、わかれ、わかってくれ』と身体をがたがた揺さぶられているような感じ」がしたという。こころを鷲づかみにされるような読書体験のなかで、自分を組み立ててきたストックフレーズにひびが入り、これまで「味わったことのない感触の『風』が吹き込んでくる」、そういう「生成的」な経験が起こる。
こうした言葉の生成的経験を学生たちに知ってもらおうと、ウチダは「リーダブルでありながら、前代未聞のことを語る」ことをみずからに課し、「泥臭い」までに言葉を尽くしに尽くす。数あるウチダ本のなかでもとくに気合の入った一冊だとおもう。
【単行本】