書評
『海』(藤原書店)
いったい『海』というような単純にして広漠たるタイトルで、いま誰が本を書くことができるだろう。海だって? 海の何を問題にしているのだ? そうした問いを避けることはできまい。われわれは単純明快な、しかも決して抽象的ならざる概念をそのままタイトルとして用いることのできない時代に生きているのだ。ところがミシュレのやったことは、まさにそれである。『鳥』『虫』『愛』『女』『山』……。あまりにもあっけらかんとしたタイトル群。それらの一般概念のなかに、ミシュレはありったけの知識を詰めこもうとする。
本書『海』もまた、「海」という一般概念のなかに詰めこまれた知識の総覧の様相を呈する。とはいえ、これはたんなる「海」の百科全書ではない。博物誌というのも必ずしも的確ではない気がする。博物誌は物の記述を並列させる。部分の集積が不可視の全体を指し示す。しかし本書は決して物の記述の集積ではない。おびただしい資料にもとづきながら、そしてそのかぎりでときに詳細な事実(たとえばニシンやタラの繁殖力に関する数字)に触れながら、記述はある種の目的連関のなかに収まっている。それは、一言でいえば、海は生きている、そして海は生むということの確認と称讃である。これは徹頭徹尾、海へのオマージュの書である。フランス語の「海(メール)」は、漢字の「海」とは逆に、「母(メール)」の内部にある。海へのオマージュは、とりもなおさず母へのオマージュであるといっていい。ミシュレが『女』の次に本書を書いたのも、なにやら象徴的ではあるまいか。
その意味で、本書でもっとも印象的なのは、「乳の海」をめぐる記述である。ミシュレは、どんなに純粋な海水でも「わずかに白味をおび、少しねっとりしている。指ですくってみると、糸をひいてゆっくりと流れおちる」という事実に注意を促す。魚の鱗に不思議な虹色をほどこしたり、貝殻に真珠のような輝きを与えたりもするこの海の「粘液」を、ミシュレは「母乳」とも「生命のゼラチン」とも呼んでいる。海の多産性は、これによって保証されるというのだ。海は生む。微小生物から始まって、サンゴ、貝、タコ、魚、クジラ、そして人魚(!)にいたるまで。ミシュレは、人魚の実体をアザラシやマナティだとする俗説を避けている。海には海で、陸におけるのとは違った進化論的系譜があるといわんばかりである。そのもとに「母乳」が、「生命のゼラチン」がある。これはまことに独得な進化論だ。本書はまぎれもなく十九世紀の産物である。
「乳の海」で想起されるのは、本書の刊行(一八六一年)より二十数年遡るところのエドガー・アラン・ポオの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(一八三八年)である。ボードレールによって仏訳されたのが一八五八年であるから、ミシュレはこれを読んでいる可能性がある。本書には言及がないから、しかしこれは確認できない。
いずれにせよ、『ピム』のなかには、バシュラールがその『水と夢』(一九四二年)においてマリー・ボナパルトの説を引きながら詳論した、ナイフの刃によって切り離されてしまうあの「重い水」、血にほかならなぬ水の描写とともに、まさしく「乳の海」としかいいようのないもうひとつの「重い水」についての描写がある。南緯八十四度を越えたところにある「乳のような濃度と色合い」をおびた海。そしてその果てに巨大な姿を見せる真っ白な人間。これが死=母だとすれば、ピムの冒険は生を授け生を回収する大いなる母のもとへの死出の旅だということになろう。ミシュレの鷹揚な記述とは明らかに様相を異にするパセティックな物語だ。しかしそのもとにある認識は共通である。
『ピム』にまた軌を一にするかのように、ミシュレは「南極にはおよそ陸地というものがない」と書いている。「はてしなく続く水、水、水」というわけだ。時代の制約というものである。注意すべきは、この水がなによりもクジラと捕鯨船のためのものであるということだ。そもそも「ナンタケット島」は捕鯨基地のある場所である。メルヴィルの『白鯨』(一八五一年)も、「捕鯨の発祥の地」ナンタケットから始まる。『海』の十年前に刊行されたこの長大な物語は、まるで「鯨学(セトロジー)」大全とでもいわんばかりにクジラに関する百科全書的な知識に満ちている。ここではクジラは人間に行為と認識を強いる恐るべき存在である。ところがミシュレにあっては、クジラはすでに「われわれ同様に赤い血や乳の流れている柔和な哺乳類」にほかならない。「世にわれわれがいたわるべき生物がいるとすれば、それは正直者のクジラであるだろう」。捕鯨基地を求めてわが国沿岸に黒船が出没していた頃の認識だ。クジラを追うことで三大洋が発見された事実を強調しながらも、ミシュレは先駆的捕鯨禁止論をぶつ。クジラに対する「半世紀ほどの完全な平和」の提唱は、現代の捕鯨禁止論に直結する。クジラは、海における進化のひとつの究極の姿なのである。クジラの雌は、「上半身は魚で、下半身は女性なのだ」。
やっぱり人間中心主義というべきだろうか。海が生むものだとすれば、その目的は人間である。だから人間は「海による復活」をとげることができる。こうして海水浴が熱っぽく勧められることになる。海で泳ぐためではない。皮膚の表面からあの海の「粘液」を、「生命のゼラチン」を、つまりは「母乳」を吸収し消化するためである。「この塩辛い乳は海の命そのものであり、そこからさまざまな存在を生み出し、蘇生させるのだ」。
ひとつの巨大な円環が閉じられるというべきだろう。人間はやはり大いなる母のもとへと回収されるのだ。「海」をめぐるミシュレの波のようにたゆたい、うねり、反復するディスクールも、こうして終わりなき終わりを迎えることになる。
【この書評が収録されている書籍】
本書『海』もまた、「海」という一般概念のなかに詰めこまれた知識の総覧の様相を呈する。とはいえ、これはたんなる「海」の百科全書ではない。博物誌というのも必ずしも的確ではない気がする。博物誌は物の記述を並列させる。部分の集積が不可視の全体を指し示す。しかし本書は決して物の記述の集積ではない。おびただしい資料にもとづきながら、そしてそのかぎりでときに詳細な事実(たとえばニシンやタラの繁殖力に関する数字)に触れながら、記述はある種の目的連関のなかに収まっている。それは、一言でいえば、海は生きている、そして海は生むということの確認と称讃である。これは徹頭徹尾、海へのオマージュの書である。フランス語の「海(メール)」は、漢字の「海」とは逆に、「母(メール)」の内部にある。海へのオマージュは、とりもなおさず母へのオマージュであるといっていい。ミシュレが『女』の次に本書を書いたのも、なにやら象徴的ではあるまいか。
その意味で、本書でもっとも印象的なのは、「乳の海」をめぐる記述である。ミシュレは、どんなに純粋な海水でも「わずかに白味をおび、少しねっとりしている。指ですくってみると、糸をひいてゆっくりと流れおちる」という事実に注意を促す。魚の鱗に不思議な虹色をほどこしたり、貝殻に真珠のような輝きを与えたりもするこの海の「粘液」を、ミシュレは「母乳」とも「生命のゼラチン」とも呼んでいる。海の多産性は、これによって保証されるというのだ。海は生む。微小生物から始まって、サンゴ、貝、タコ、魚、クジラ、そして人魚(!)にいたるまで。ミシュレは、人魚の実体をアザラシやマナティだとする俗説を避けている。海には海で、陸におけるのとは違った進化論的系譜があるといわんばかりである。そのもとに「母乳」が、「生命のゼラチン」がある。これはまことに独得な進化論だ。本書はまぎれもなく十九世紀の産物である。
「乳の海」で想起されるのは、本書の刊行(一八六一年)より二十数年遡るところのエドガー・アラン・ポオの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(一八三八年)である。ボードレールによって仏訳されたのが一八五八年であるから、ミシュレはこれを読んでいる可能性がある。本書には言及がないから、しかしこれは確認できない。
いずれにせよ、『ピム』のなかには、バシュラールがその『水と夢』(一九四二年)においてマリー・ボナパルトの説を引きながら詳論した、ナイフの刃によって切り離されてしまうあの「重い水」、血にほかならなぬ水の描写とともに、まさしく「乳の海」としかいいようのないもうひとつの「重い水」についての描写がある。南緯八十四度を越えたところにある「乳のような濃度と色合い」をおびた海。そしてその果てに巨大な姿を見せる真っ白な人間。これが死=母だとすれば、ピムの冒険は生を授け生を回収する大いなる母のもとへの死出の旅だということになろう。ミシュレの鷹揚な記述とは明らかに様相を異にするパセティックな物語だ。しかしそのもとにある認識は共通である。
『ピム』にまた軌を一にするかのように、ミシュレは「南極にはおよそ陸地というものがない」と書いている。「はてしなく続く水、水、水」というわけだ。時代の制約というものである。注意すべきは、この水がなによりもクジラと捕鯨船のためのものであるということだ。そもそも「ナンタケット島」は捕鯨基地のある場所である。メルヴィルの『白鯨』(一八五一年)も、「捕鯨の発祥の地」ナンタケットから始まる。『海』の十年前に刊行されたこの長大な物語は、まるで「鯨学(セトロジー)」大全とでもいわんばかりにクジラに関する百科全書的な知識に満ちている。ここではクジラは人間に行為と認識を強いる恐るべき存在である。ところがミシュレにあっては、クジラはすでに「われわれ同様に赤い血や乳の流れている柔和な哺乳類」にほかならない。「世にわれわれがいたわるべき生物がいるとすれば、それは正直者のクジラであるだろう」。捕鯨基地を求めてわが国沿岸に黒船が出没していた頃の認識だ。クジラを追うことで三大洋が発見された事実を強調しながらも、ミシュレは先駆的捕鯨禁止論をぶつ。クジラに対する「半世紀ほどの完全な平和」の提唱は、現代の捕鯨禁止論に直結する。クジラは、海における進化のひとつの究極の姿なのである。クジラの雌は、「上半身は魚で、下半身は女性なのだ」。
やっぱり人間中心主義というべきだろうか。海が生むものだとすれば、その目的は人間である。だから人間は「海による復活」をとげることができる。こうして海水浴が熱っぽく勧められることになる。海で泳ぐためではない。皮膚の表面からあの海の「粘液」を、「生命のゼラチン」を、つまりは「母乳」を吸収し消化するためである。「この塩辛い乳は海の命そのものであり、そこからさまざまな存在を生み出し、蘇生させるのだ」。
ひとつの巨大な円環が閉じられるというべきだろう。人間はやはり大いなる母のもとへと回収されるのだ。「海」をめぐるミシュレの波のようにたゆたい、うねり、反復するディスクールも、こうして終わりなき終わりを迎えることになる。
【この書評が収録されている書籍】
図書新聞 1995年2月11日
週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。
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