書評
『チッソは私であった: 水俣病の思想』(河出書房新社)
六歳の時に網元であった父親の水俣病による激烈な死に出会い、自身も患者となった著者が、自身の中に加害者を見出す過程とその後の活動の記録である。チッソへの抗議運動の先頭に立つうちに、誰と闘っているのかわからなくなったと言う。チッソでも役所でも人間に会いたかったのに、そこには目に見えないシステムがあるだけだったのだ。それが近代化を求めた社会であり、自分もその中の一人ではないか。人間を見つめると自分もチッソだとしか言えないと思うようになる著者の変遷は、厳しい問いをつきつける。読者である私も加害者だと言われているのだから。その後の著者は漁師として海や魚と向き合いながら、水俣病事件は認定や補償の問題ではなく、生きる意味を考えさせているのだとの思いで、ひたすら考え続ける。
「魚(いを)とともに生きる」「魂とは何ぞや」という章では、漁師の仕事は命懸けだということを基本に、海山と繋がりたい、人間も自然も信頼して生きていきたいという心情が日常の中で語られており、その真摯な一語一語に心打たれる。コロナ禍の中、若い人に是非読んで欲しい一冊だ。
「魚(いを)とともに生きる」「魂とは何ぞや」という章では、漁師の仕事は命懸けだということを基本に、海山と繋がりたい、人間も自然も信頼して生きていきたいという心情が日常の中で語られており、その真摯な一語一語に心打たれる。コロナ禍の中、若い人に是非読んで欲しい一冊だ。
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