書評

『歴史学の慰め:アンナ・コムネナの生涯と作品』(白水社)

  • 2020/10/21
歴史学の慰め:アンナ・コムネナの生涯と作品 / 井上 浩一
歴史学の慰め:アンナ・コムネナの生涯と作品
  • 著者:井上 浩一
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(330ページ)
  • 発売日:2020-07-16
  • ISBN-10:4560097763
  • ISBN-13:978-4560097762
内容紹介:
歴史が男の学問とされていた時代に、ビザンツ帝国中興の祖である父アレクシオス一世の治世を記した皇女の生涯をたどり作品を分析する

帝位を諦めきれない皇女の執念

11世紀末から12世紀前半といえば、わが国では源氏・平氏の武士団が勢力をもたげ、西ヨーロッパでは十字軍の活動が目立ってきたころだ。東ヨーロッパのビザンツ帝国では、大豪族コムネノス家のアレクシオス(一世)が王朝を開いたが、皇帝の母、妻、娘・息子たちの愛憎の人間関係はなにやら物々しかった。本書は、なかでも長女アンナ・コムネナを焦点とする物語と解説である。アンナは古代・中世を通じて唯一の女性歴史家と言われており、父帝の伝記『アレクシアス』を残したことで名高い。

アンナは生まれてまもなく婚約した。相手は元皇帝の血をひく少年コンスタンティノス。弟さえいなければ、未来の夫は皇帝になるはずだった。だが、弟ヨハネスが生まれ、ある陰謀事件のどさくさで若き婚約者は不可解な死をとげる。アンナは、この眉目秀麗な若者を「思い出すと涙が溢れて仕方がない」と嘆いたという。

やがて、皇女アンナは教養ゆたかな軍事貴族ブリュエンニオスを夫に迎えた。この青年は文武両道にすぐれ、弓の名人であるとともに、古典や神学の教養ゆたかな文人でもあったという。アンナの母エイレーネーも学識があったせいで、文武両道に通じる娘婿に親しみを感じていたらしい。この二人の影響で、アンナもまた哲学や古典の教養を身につけていく。

さて、ここまでなら、ありふれた宮廷内の内輪話である。ところが、さまざまな難局をのりきってきたアレクシオス一世が晩年には病気がちになり、事態は急変する。夫を支えていたエイレーネーは政治に関与するようになり、なにかと頼りにしてきた娘婿を夫の跡継ぎにと口にするようになった。

実の息子ヨハネスがいるのだから、雲行きが怪しくなる。もともと実母でありながら、息子のことを「粗暴で、遊び人。性格が歪んでいる」とまで非難していたという。彼女には、温厚有徳にして学識ある娘婿こそ皇帝にふさわしいと思えたのだ。アンナもまた、ここぞとばかり母の願いに同調する。

おそらく父帝は実子に継がせることを望んでいたにちがいない。ヨハネスは父の臨終を見届けると、すばやく即位の手続きを進めた。かくして31歳のヨハネス二世が帝位に就いた。

ところが、アンナだけは帝位への執念を捨てきれなかったらしい。狩りが趣味だった弟帝の外泊時に襲撃して殺害を試みる。準備は万全だったが、計画はあっけなく失敗した。幸か不幸か、肝心の夫が優柔不断で怯えてしまい、ぐずぐずしていたのだ。陰謀が露見し、加担者は逮捕された。夫は、妻の弟への逆恨みによる暴走に巻き込まれたくはなかったのだ。

首謀者であったアンナは母の住む修道院に引き取られ、姉弟は和解して落着した。その修道院で後半生を過ごしたアンナは学問に慰めを見出し、立派だった父帝の治世を私情たっぷりに『アレクシアス』に綴ったのである。

そのなかで、アンナは自分の辛さをくりかえし嘆く。だが、悲運や辛苦は誰の運命にも降りかかるもの。彼女には「弟さえ生まれて来なければ…」という悲嘆だけがうごめいていたのかもしれない。

後半の「作品」論では、このアンナ執筆本の「史料」としての信憑性をめぐって詳細に解説している。安心して読める歴史書であるのが嬉しいかぎりだ。
歴史学の慰め:アンナ・コムネナの生涯と作品 / 井上 浩一
歴史学の慰め:アンナ・コムネナの生涯と作品
  • 著者:井上 浩一
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(330ページ)
  • 発売日:2020-07-16
  • ISBN-10:4560097763
  • ISBN-13:978-4560097762
内容紹介:
歴史が男の学問とされていた時代に、ビザンツ帝国中興の祖である父アレクシオス一世の治世を記した皇女の生涯をたどり作品を分析する

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2020年8月8日

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
本村 凌二の書評/解説/選評
ページトップへ