少女の日常から響いてくるビートルズ
この一冊に流れている空気を、どう言えばいいだろう。untiedという言葉が英語にあって、辞書をひくと、「(結び目、包みなどが)ほどけた」とでているのだけれど、何かそのような感じ。自由というのではない。むしろ、ゆるーい不自由。ほどけた、あるいはつめたい水がやわらかくぬるんだ、という空気。
時代は一九六〇年代、場所は岡山よりさらに西にある小さな町。十四歳の喜久子の日々が、その町の人々の暮しぶり、肌で感じられるくらいナマなそれを背景に、綴(つづ)られる。
この喜久子が、いいのだ。ぎくしゃくした、でも全身でそのときのその場所を受けとめようとする、良識のある中学生。良識のみならず気概もある彼女は、どこかで“女”というものを警戒しているのだが、すでに立派に“小さな女”である。おまけに、言葉本来の意味において、育ちがいい(なにしろ、ああいう父とああいう母――読めばわかります――に育てられたのだ)。その彼女の一人称に導かれ、読者は物語に分け入っていく。
人にはそれぞれ事情がある。
慎み深い、それでいて妥協のない手つきで、著者はそのことをじっくり描き込んでいる。ときに辛辣(しんらつ)に、ときにユーモラスに、乾いた慈みのまなざしをもって。
描かれるのは、いわゆる「市井の人々」である。文具店ネコシマのニーさんとおばあさん、美容師のリリーさん、玩具店を営む「キリスト教伝道所」の牧師さん。主人公の同級生の朋美、東京からの転校生の白石さん、不良に目をつけられている(らしい)真山くん。口のきけないおばあさんのウーさぁもいるし、ちょっとあだっぽく、ニーさんが思いを寄せている(らしい)中沢久枝という女の人もいる。そして、大人にも子供にも、当然きわめて複雑な、もつれた、不透明な事情が普通に(・・・)ある。
それを滲(にじ)ませたふくよかな会話が、彼らの息づかいまで映し、ほんとうに魅力的だ。大人同士のも子供同士のも、大人と子供とのそれも。本音だけではない。遠慮も皮肉も社交辞令もひっくるめ、すべらかにまるい言葉たち。
岩瀬成子(じょうこ)という人は、あっけらかんと巧みな作家だ。すべてをつまびらかにしないからこそ息づかいまで映してしまう会話といい、読み終ってはじめて鋭い痛みを伴うプロローグといい、時間を前後させた語り口の妙といい。
喜久子はまだ中学生なので、人生と家族が密接に、というより不可分につながっているのだが、仕立屋を営むお父さんは、彼女が「味噌(みそ)汁を飲もうとすると、横から『熱いぞ』と必ず」言う。アメリカに憧(あこが)れ、米兵に英語を教わっているお姉さんは、「吊(つ)り棚にも勉強机にも椅子にまで白いペンキを塗り、星条旗柄のカップで薄いインスタントコーヒーを飲む」のだが、丁寧に灰汁(あく)をすくって黒豆を煮るし、魚もおろし、料理を「母さんの味でこしらえられる」。その在りし日のお母さんはといえば、お祭の日に、娘二人を象に乗せ、幼い二人が怖がって泣くのを、彼女たちが「預けたりんご飴(あめ)を両手に一つずつ持って、あっはっはと笑い転げて」見ているような人だった。
たとえばこのたった三つのディテイルで、岩瀬成子は喜久子という子の背景ではなく存在そのものを、鮮やかに立ち上がらせてしまう。
そして勿論(もちろん)、タイトル通り最初から最後まで、この本のあちこちからビートルズがこぼれてくる。ほんとうにこぼれてくる。本を閉じても、まだ聞こえる。
実にエレガントな小説である。