書評

『中国の地の底で』(朝日新聞)

  • 2023/01/17
中国の地の底で / 鄭 義
中国の地の底で
  • 著者:鄭 義
  • 翻訳:加藤 三由紀,桜庭 ゆみ子,藤田省三
  • 出版社:朝日新聞
  • 装丁:単行本(319ページ)
  • 発売日:1993-09-01
  • ISBN-10:4022566590
  • ISBN-13:978-4022566591
内容紹介:
獄中にある愛しい妻へ、苦悩する愛しい祖国の人々へ…。89年「血の日曜日」=天安門事件で地下に潜行した著者が、絶望の中国現代史"裏切られた革命"を告発する。

投函されなかった手紙

映画「古井戸」の原作者鄭義(ていぎ)の『中国の地の底で』は次のような妻への呼びかけではじまる。

「愛しい明(ミン)、苦難のただ中にあるわが愛しき妻へ
魂が抜けたような状態は今も続いている。煙草に火をつけ一服するたびに、また君のことを思い出す。何の権利があって奴らはいつまでも君を監禁しておくのか。そして、耐えきれず外に飛び出し村の小道を眺めるのだ。あの小さな林のあたりに、小さな橋に、一面に咲きほこる菜の花畑に、君の美しく元気な姿が現れてくれればと何度も何度も目をやる……(略)いま私はただ君に会いたい、一目でいい! 神よ、どうか彼女を救って下さい。どうか私を十字架につけて下さい。私はこの民族の苦難をさらに深く味わいたいのです。神よ、男には血を流さしめ、涙を流さしめ給うな」

鄭義は、一九八九年六月四日の天安門事件につながる中国の民主化運動に、作家として積極的に参加して最重要指名手配を受けたが、共産党政府に不服従の意志を貫くため、妻の北明と別れて一人地下に潜った。彼は大工仕事をしながら中国各地を転々とする。共産党は残された北明を逮捕し、監禁する。地下連絡員からこの知らせをきいた鄭義は、妻の身を案じ、妻への愛を再確認しながら、彼女あてに投函されることのない手紙を書き綴る。

全部で十一通の手紙は、時に逃亡の日々の報告、様々な農民や労働者から聞き集めた共産党独裁支配の実状の記録であり、時に少年時代に遭遇した文化大革命の思い出と批判、強い文学的使命感の吐露である。それは、妻で文芸評論家の北明ひとりにあててというより、熱く悲しい思いで絶大な権力に抗して立ちあがろうとしている同胞への語りかけといったほうがふさわしい。彼の共産党への怒りと憎しみは徹底している。

中国の農民は、農民から新たな農奴へおとしめられたのだ。解放前の農民は地主から搾取され迫害されたが、彼らは惨い王(ワン)地主のところからそれほど惨くない張(チャン)地主のところへ移って行くことはできた。解放後はどうか? 地主という地主はすべて打倒されて、土地はたった一人の地主の手に握られるようになった。この唯一の地主は、多くの管理人や用心棒を使って、数億の農民を厳しい管理下においた。すなわち自由な移動を許さず、自由な作付けを許さず、自由な売買を許さず、そしてこの唯一の地主の土地から逃れて、山奥に隠れ住むことすら許されないのである。

最後の十一通目の手紙は妻への遺書になっている。

だが鄭義は三年間の逃亡生活を生き抜き、釈放された北明と地下組織の支援で再会することができた。一九九二年三月、二人は香港に脱出、九三年一月、アメリカに亡命した。

しかし、アメリカでの亡命生活は決して順調でなく、彼はいままた中国国内を逃げ回っていた頃と同じように、食うために大工の仕事をはじめたと聞く。健康状態もあまりよくない。トルストイやドストエフスキーの国から逃れてきたソルジェニーツィンのようなわけにはゆかないらしい。発表の機会を奪われた作家は、どんなに自由な国に生きようとも自由ではない。悲しいことだが、これが現実だ。

一九九七年七月一日、香港は中国に返還された。ということは、香港はもはや、いまなお中国にいる第二、第三……n個の鄭義たちにとっての脱出先ではなくなったということだ。彼らは国内にとどまって、死にもの狂いの工夫と意匠で、あるいはすばらしい作品をうみ出すかもしれない。

【この書評が収録されている書籍】
新版 熱い読書 冷たい読書  / 辻原 登
新版 熱い読書 冷たい読書
  • 著者:辻原 登
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(452ページ)
  • 発売日:2013-08-09
  • ISBN-10:4480430881
  • ISBN-13:978-4480430885
内容紹介:
古典、小説、ミステリー、句集、学術書……。文字ある限り、何ものにも妨げられず貪欲に読み込み、現出する博覧強記・変幻自在の小宇宙。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

中国の地の底で / 鄭 義
中国の地の底で
  • 著者:鄭 義
  • 翻訳:加藤 三由紀,桜庭 ゆみ子,藤田省三
  • 出版社:朝日新聞
  • 装丁:単行本(319ページ)
  • 発売日:1993-09-01
  • ISBN-10:4022566590
  • ISBN-13:978-4022566591
内容紹介:
獄中にある愛しい妻へ、苦悩する愛しい祖国の人々へ…。89年「血の日曜日」=天安門事件で地下に潜行した著者が、絶望の中国現代史"裏切られた革命"を告発する。

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初出メディア

サンデー毎日

サンデー毎日 1996年6月12日号~1997年12月14日号

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