書評
『針の眼』(東京創元社)
歴史の「イフ」が牙をむく
ケン・フォレット『針の眼』の新訳が出た。十年ばかり前、ハヤカワ文庫(鷺村達也訳)でよんだときのおもしろさは忘れ難い。五百ページを二日でよんだ。そして最近、新訳でよんで、相変わらず色褪(あ)せないおもしろさだった。しかし、一週間かかった。昔のよみ方と違うのだ。今の僕は大体いつも四、五冊並行して、毎日各九十分ずつよむ。どんなに興がのっても九十分で打ち切る。一気のみも一気よみも似合わない年になった(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1996年頃)。クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、とは歴史の「イフ」の代表例だが、現代史における最大の「イフ」は第二次世界大戦でナチス・ドイツが勝っていたら、だろう。あるいは、日中戦争と太平洋戦争で日本が勝っていたら……。「平和」憲法も戦後民主主義もなかった。ではどうなっていたか。もっとひどい軍国主義国家になって、世界の鼻つまみになっていただろうか。まさか。いくらなんでも推理が単純すぎる。ナチス・ドイツの内部から、軍国日本の内部からファシズムに反対する勢力がうまれ、力を得て、革命をおこしたかもしれない。
歴史に「イフ」は禁物が通り相場。しかし、立派な歴史的事実にしても、もしかしたら指導者が間違った判断をしたおかげで、たまたま正しい選択になったという場合もあったかもしれない。タブーを破って、歴史上のさまざまな「イフ」をあれこれ詮索する物語のつきないゆえんだ。
『針の眼』はまさにその現代史最大の「イフ」、ナチス・ドイツが勝利していたかもしれない、あの連合軍の大奇襲作戦・ノルマンディー上陸作戦をめぐるサスペンスにみちた冒険小説だ。
連合軍の大陸進攻が目前に迫っていた。ドイツは連合軍のカムフラージュにひっかかって、上陸地点をカレーとふんでいた。しかし、このカムフラージュを見破った優秀なドイツ・スパイがいた。《針(デイ・ナーデル)》だ。
連合軍の上陸地点はノルマンディーだ。その証拠写真の撮影に成功した。《針》は、スコットランド沖に潜行して待機するUボートに乗って、写真をヒトラーに届けようとする。
別にもうひとつのストーリーが出発して、《針》のストーリーと合体をめざして進行する。この小説にラヴ・ロマンスの香気を添える魅力的な人妻・ルーシイの物語だ。彼女は熱烈な恋愛でイギリス空軍中尉と結ばれるが、新婚旅行中の自動車事故で夫は半身不随になり、スコットランド沖の孤島に隠遁して羊を飼って暮らしている。ジョーという三歳の子供がいる。
さあ、その孤島に、Uボートに乗りこむためにイギリス陸軍情報部の執拗な追跡の手を、残忍な手口の連続殺人で振り切った《針》が、嵐にあって漂着するのだ。追う情報部と追われる《針》の死闘のドラマと、チャーミングなルーシイの牧歌的な物語の接近と合体は、よんでいてじつにスリリングだ。
ルーシイは瀕死の《針》を救け、《針》によって女の歓びを知り、深い恋におちる。結末(ラスト)については触れないでおこう。もちろん、《針》の写真はヒトラーに届かなかった。もし届いていたら……。
ところで、ついこのあいだ、六月十四日付の東京新聞の朝刊は、連合軍のノルマンディー上陸作戦がもう数日遅れていたら、ソ連は赤軍をパリに送りこんでいた、というスターリンの証言がクレムリンの文書に記録されていることが判明した、と報じている。
歴史の「イフ」はフィクションどころか、いつも牙を剝いて現実におどりかかろうとしている。
【この書評が収録されている書籍】
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