書評
『魔の聖堂』(新潮社)
中世詩の贋作(フェイク)作家として知られている夭折の天才詩人トマス・チャタトンが、実は五十歳を過ぎるまで生き続けていて、同時代の有名詩人の作品を偽造していたとしたら――。十八世紀に実在した詩人と、その業績を巡って空騒ぎを繰り広げる現代人を呼応させることで、芸術における「創造性」と「模倣」、「真」と「贋」の問題を様々な位相から描き出して傑作の誉れ高いピーター・アクロイドの『チャタトン偽書』(文藝春秋)。翻訳こそ後になってしまったものの、その二年前に書かれているのが本書『魔の聖堂』だ。
ニコラス・ホークスムアという十八世紀の建築家が設計し、今もロンドン市中に実在する六つの聖堂の位置関係にインスパイアされたアクロイドが、そこに架空の聖堂を一つを加えて、時空を超える“謎”を仕掛けた異色ミステリー。そう、これまた実在の人物をモチーフに、過去と現代を呼応させ合うという構造を持った作品なんである。
ロンドンに点在する七つの聖堂で連続殺人事件が発生。犯行の行方を追うホークスムア警視正の前に、聖堂を設計した十八世紀の建築家ニコラス・ダイアーが仕掛けた謎が見え隠れする。果たしてダイアーはいかなる意図をもって、これらの聖堂をその位置に建てたのか――。ダイアーとホークスムアのパートを二つの文体で交互に描きながら、アクロイドは読者を「時間」「場所」「言葉」という三つの層からなる迷路へといざなう。とりわけ凝っているのが「言葉」の迷路だ。章締めのキーワードと次章冒頭の文章が呼応するのをはじめ、ラストに向かってシンクロしていく二人の精神状態を示すかのように、彼らのそれぞれの章の特定の文章を調子を変えながら互いの章にスルリと忍び込ませる芸の細かさといったら! 飛ばし読みを許さない緻密な構成には、思わずほれぼれしてしまう。
謎解きの部分に関しては、通常のミステリー作品がもたらしてくれる類(たぐい)のカタルシスは期待しないほうがいい。最終章、ダイアーとホークスムアが遂に×××してしまう段になっての不気味な読後感。訳者の懇切丁寧なあとがきにもあるとおり、アクロイドはこの物語の結末を読者の判断に委(ゆだ)ねている、そんな曖昧模糊とした終わりかたなのだ。しかし、この三層に入り組んだ迷路の出口は本当にあるのかどうか。わたしは自分の尾を嚙む蛇ウロボロスのごとき小説だと思ったんですが、みなさんはどうお読みになりますか?
ニコラス・ホークスムアという十八世紀の建築家が設計し、今もロンドン市中に実在する六つの聖堂の位置関係にインスパイアされたアクロイドが、そこに架空の聖堂を一つを加えて、時空を超える“謎”を仕掛けた異色ミステリー。そう、これまた実在の人物をモチーフに、過去と現代を呼応させ合うという構造を持った作品なんである。
ロンドンに点在する七つの聖堂で連続殺人事件が発生。犯行の行方を追うホークスムア警視正の前に、聖堂を設計した十八世紀の建築家ニコラス・ダイアーが仕掛けた謎が見え隠れする。果たしてダイアーはいかなる意図をもって、これらの聖堂をその位置に建てたのか――。ダイアーとホークスムアのパートを二つの文体で交互に描きながら、アクロイドは読者を「時間」「場所」「言葉」という三つの層からなる迷路へといざなう。とりわけ凝っているのが「言葉」の迷路だ。章締めのキーワードと次章冒頭の文章が呼応するのをはじめ、ラストに向かってシンクロしていく二人の精神状態を示すかのように、彼らのそれぞれの章の特定の文章を調子を変えながら互いの章にスルリと忍び込ませる芸の細かさといったら! 飛ばし読みを許さない緻密な構成には、思わずほれぼれしてしまう。
謎解きの部分に関しては、通常のミステリー作品がもたらしてくれる類(たぐい)のカタルシスは期待しないほうがいい。最終章、ダイアーとホークスムアが遂に×××してしまう段になっての不気味な読後感。訳者の懇切丁寧なあとがきにもあるとおり、アクロイドはこの物語の結末を読者の判断に委(ゆだ)ねている、そんな曖昧模糊とした終わりかたなのだ。しかし、この三層に入り組んだ迷路の出口は本当にあるのかどうか。わたしは自分の尾を嚙む蛇ウロボロスのごとき小説だと思ったんですが、みなさんはどうお読みになりますか?
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