書評
『雨の中の蜜蜂』(彩流社)
本物の雨に濡れながら
ガンダラという土地をごぞんじ?仏教美術のメッカ、ガンダーラではなく、ポルトガル中部の大西洋寄りにひろがる一帯の荒地を指す。やせた砂地なので、十七世紀に新大陸からジャガイモやトウモロコシがもたらされる前は完全な無人地帯だった。いまだに原野が残り、人家もまばらなところだ。
その、ガンダーラではなく、ガンダラにこだわりつづけた作家がいる。一九二一年生まれの、ポルトガルの作家、カルロス・デ・オリヴェイラ。今回読んだ『雨の中の蜜蜂』ではじめて日本に紹介された。
さして長くない作品で、筋立ても一本道といっていいくらいまっすぐ。冒頭、ガンダラからの道を、雨のなか一人の男がたどってくる。その男のあとを追うことがそのまま物語の筋を追うことになって、結末に至る。すべては雨の降りつづく二日間で終始する。
男はガンダラの一角を占めるモントーロ村の農園主。町の新聞社を訪ねて、書きつけをさしだし、第一面にのせてくれるよう頼む。
一読して、男の正気を疑うような内容だった。弟の相続分の土地を無断で売却したこと、雇い人たちの取り分をちょろまかしてきたことを自己告発しているのだ。妻の教唆だったことも暴露してある。
農園主は追ってきた妻になすすべもなく連れもどされる。貴族出の妻に頭が上がらないのだ。農園にもどると、間もなくアフリカから帰るという弟からの手紙が届いている。
眠れない一夜を明かして、夜明けがた、屋敷をさまよい出た男の耳は、あいびきの男女の声をとらえる。馭者と陶工の一人娘だ。
出口のない農園主の焦燥からくる悪意が、せきを切ったように若い二人に向けられる。農園主は、盲目の陶工に娘の不行跡を告げ口する。それが若い二人を死に追いやる。
やり場のない絶望感が昂じて、小心者が性悪な告げ口を思いつき、それが壼にはまってほくそえむくだりは、作者の筆づかいそのものが、邪悪に化けてしまったようで迫力がある。
誰にも逃げ場のない結末に向けて、作者は一切の粉飾なしにひたすらリアリズムで押してゆく。農園主の八方塞がりの絶望は、時間を追って克明に跡付けられる。妻が夫の恐慌に拍車をかけるさまも、屋敷のサロンに集まる村の名士たち、神父や医者や教師のいい気な善玉ぶりも、貧しくて頑な村人たちが悲劇に無関係でないことも、正確に書きこまれている。
物語は激しい雨に捕まって、地面に叩きつけられる蜜蜂の描写でしめくくられる。
「……それでもなおもがいていたが、ついに渦巻く水に飲まれ枯れ葉もろともどこかへ連れ去られていった」
外国文学好きの間でもてはやされている「魔術的リアリズム」なるものにいささか食傷ぎみの僕には、一九五三年刊行のこの小説のリアルさは早天に慈雨の思いだった。言葉で出来上がっている世界にはちがいないのに、直(じか)にガンダラに身をおいている気がし、読んでいて、本物の雨にじっとり濡れた。
第二次大戦後、世界中でリアリズム文学運動が起こった。戦争で根こそぎにされた生を立て直すことが緊急に必要だった。
剛直で、しかも幻惑的なこの小説はそうした気運の成果だ。
僕たちの戦後文学は、あいにくとリアリズムに背を向けてしまった。四十年前にポルトガルに降った雨に濡れて、渇きがいえる心地になるのは、僕だけではないと思う。
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