書評
『石器時代文明の驚異―人類史の謎を解く』(河出書房新社)
石器時代は人類の文明活動の基本
同じ石器でも、旧石器時代と新石器時代(縄文時代)の扱いはぜんぜんちがう。新石器時代は、大きな発掘のあるたびに新聞をにぎわし、やれ”縄文的なるもの”だの”森の思想”だの町おこしだのと誇らしげに語られるのに、旧石器時代ときたら、裸体に毛皮をまとった狩人が氷原の上でマンモスを追っかけているていどのイメージしかない。たしかに、毛むくじゃらな手で石のカケラを握って前かがみに歩くような連中を、現代の人々がわが御先祖さまと思えないのも仕方ないと言えばいえる。
日本人のアイデンティティーは縄文時代止まりなのである。
しかし、ここ数年の発掘の成果は、ジリジリとだが、旧石器時代の旧イメージを崩しつつある。たとえば、いくつもの石器を、美や宗教的感情を呼びおこすような同心円状に並べ、ていねいに土中に埋めたものとか、木造の住居らしきものの痕跡とか、日本列島のそこここで見つかりはじめている(なお、これは偽発掘だったことが二〇〇〇年に判明)。
現在の日本の考古学では、もちろんふつうの人のイメージ上ではなおさら、旧・新の両石器時代をまるでレベルのちがう人類の状態として断絶的に扱っているけれども、もしかしたら両者の連続性は意外と強いのかもしれないし、将来は、一つの石器時代の中の前半・後半くらいに考えられるようになるかもしれない。この『石器時代文明の驚異』(河出書房新社)はそうした枠組みで書かれている。
たとえば、文字の起源について、一般には石器時代につづく青銅器時代にエジプト、メソポタミア、中国などで生まれたとされるが、著者は、石器時代それも旧石器時代まで行ける可能性について語る。
アルタミラほかの氷河期の洞穴遺跡に動物の写生画とともに残された何十もの記号と、エジプト、シュメール、キプロス、シナイ、フェニキア、イベリア、エトルリア、ギリシャ、ローマ、インド、中国といった世界の古代文学との驚くべき形の類似を並べて見せられると、これは何かある、と思わざるを得ない。
と書くと、この本も古代史神秘本の一つと思われるかもしれないが、著者はオックスフォード大学の考古学者であり、可能性が感じられるかぎり思考を放棄しない、という立場で論をすすめる。そして、三万年近い石器時代を通して同じような記号が各地で繰り返し使われていたということは、「いまだにほとんど理解されていない、象徴的情報伝達システムが存在していたことを意味している」。
旧石器時代の文字から新石器時代の頭蓋骨へと話は飛ぶ。発掘される頭蓋骨の中に、きれいに丸い穴のあいたものがいくつもあり、さまざまな憶測がなされてきたが、どうも手術の痕の可能性がある。理由は、治癒した痕跡のあるものも見つかっているからだが、十九世紀に入ってもアフリカなどでは行われており、まちがいないらしい。動物から感染して脳の中に入り込む寄生虫を取り出すためという。
著者は、ユダヤ人の割礼やアフリカ原住民の指の切断儀礼のような現在では根拠不明な身体欠損行為について、石器時代の手術の名残ではないかと説明するが、たしかに縄文時代人の抜歯(前歯を抜く)やその筋の人の指詰めもそう考えるとそんな気もしてくる。
この本を読む前に、美術好きの一考古学ファンの積年の謎が解かれることを期待した。ほかでもない。旧・新石器時代を通して世界中で発掘される裸の女性と男性の像についてである。古い例は洞穴絵画よりもさかのぼり、人類最古の芸術的表現は石や牙や骨に刻まれた裸の女性像(しばしば○○のヴィーナスと呼ぼれる)ということになっているが、私の疑問は、なんで女性は全身像なのに、男は局部の像でしか表現されないのか。わが縄文時代も例外ではなくむしろ典型で、女性はヴィーナス(茅野市発掘のは国宝にまでなっている)として美しく登場するのに、男は石棒だけ。
女性像について著者は、
単なる多産の象徴とか性的欲望の対象などと考えるのは粗雑であり……女性の身体は宇宙論的な意味をもつシンボルであり、旧石器時代の人間のありとあらゆる関心の表現手段だったのである
と深淵な意味を認めながら、男の局部像について、「やはり張り形として使われたのだろう」ではあまりではあるまいか。もう少しなんとか文化的意味を……。
ともあれ、石器の時代が人類のすべての文明的活動の基本となっていることを教えてくれる貴重な一冊である。
なお、日本史の教科書の近年の傾向として、神話が増え、そのぶん旧石器時代が減っているそうだが、やはりアイデンティティーは縄文の先には届かないのか。
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