魅惑のラビリンス――中世の身体
小池寿子
ヨーロッパ中世に関する書物が数多く出版され、密かな中世ブームとなって久しい。中世の歴史を詳らかに綴った書はむろん、中世ヨーロッパの「祝祭」「生活誌」「服装」「騎士」「城」「都市」「農村」「夢」など具体的なテーマを扱う著作や、中世を生きる人々の心性に迫る書など、タイトルを見るだけでいかに多様なアプローチがこころみられているか分かる。中世を生きた人々はすでに死者であり、その生死のあり方を通じて中世世界のみならず、「今」「現代」を生きる我々への問いかけを行う書もある。私自身『死者のいる中世』という本を出してからすでに三〇年弱の歳月を経た。同書は、「私」がヨーロッパの旅を通じて中世を彷徨するという語りで綴り、連綿と引き継がれる生のなりわいを紐解こうとする試みであったが、今もなお、私にとって中世の魅力は薄れることはない。何故か?まさにそれは、中世史研究の碩学ジャック・ル・ゴフが『中世とは何か』という書で問いかけているように、この古代ローマと近世の中間と位置づけられた暗黒のイメージつきまとう「中世」が、未だに解き明かされない多くの課題を内包しながらも、ヨーロッパ、強いていえば現代社会の基盤を築き上げているからだ。そして何より、人間の変わることない生死のあり方を開示し続けるミステリアスな世界だからであろう。
ジャック・ル・ゴフは、人文学研究において広く知られたアナール派の第二世代を代表する研究者である。アナール派は、一九二九年、ストラスブール大学の研究者たちによって創刊された『社会経済学史年報(Annales d’histoire economique et sociale)』に寄稿し、意を共にした歴史家が主導し、学際的な学問のあり方を提唱した学派である。文献史料批判に留まらない「生きた歴史学」を唱えたリュシアン・フェーヴルとマルク・ブロックにはじまり、第二世代ではフェルナン・ブローデルや死生学研究の開拓者、フィリップ・アリエスらが名を連ねる。彼らの方法論は「心性史」(Mentalite)と呼ばれ、アナール派の基調であった。第三世代のジャン=クロード・シュミットは、中世西欧歴史人類学研究を牽引し、今やその方法論は美術史学にも援用されている。詰まるところ、公文書などに記録の残る「歴史」だけが歴史を築いてきたのではなく、歴史学は、文化人類学や宗教学、社会学、美術史など他の分野と連係することで、「生きた歴史」「人間が生死する歴史」を明らかにし、それを今日的な問題に投影する役割があるとするのである。
本書の筆者ジャック・ハートネルは、イギリス、イースト・アングリア大学の美術史研究者であるが、コートールド・インスティチュートで学位を得た後、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館他に勤務し、とくに本書で多くの図版を掲載しているオックスフォード、ウェルカム・インスティチュート所蔵の品々は、ハートネルの関心の奥深さを物語っている。ウェルカム・インスティチュートは中世医学史にとっては必須の資料保存機関だからだ。
ハートネルの本書は、まさに、アナール派をさらに超えて、美術史と医学史を結ぶ試金石と言えよう。
本書の序文は衝撃的である。二〇〇三年、損傷した頭蓋骨が骨董品として売却されたという書き出しである。口を開けてのけぞり、後頭部をくりぬかれたこの人物は一二〇〇年から一二八〇年頃の中世を生きていたというのだ。ほとんどホラー映画並みの冒頭には、読者をオカルト的な世界へ引き込もうとする意図がある。そればかりではなく、筆者が語るように、中世そのものが惨憺たる残虐な暗黒の時代という認識が、欧米の中世映画を見ても明らかなように、趨勢を占めているからだ。身体各部分を次々に取り上げるスプラッター的な本書の導入部としては考え抜かれた巧みなアイデアである。
しかし、本書の意図は身体各部分を通じて中世世界に光を灯すことにある。そこに映し出されるのは、暗黒で陰惨きわまりない世界ではなく、悲喜こもごもの、まさに今日の私たちの生き様に共通する人間模様なのである。取り上げられた身体の各部分については、それにまつわる医学・宗教・信仰・迷信・美術・生活様式・食餌など実に多様な分野の文献を渉猟しながら、中世に生きた人間を小気味よく活写しており、しかもヨーロッパに限らず、古代医学を継承し、当時の知の宝庫であったイスラーム圏をも包含する。一二世紀ルネサンスがイスラーム圏の先進性に多大に依拠しているように、中近東は中世研究にとってきわめて重要な地域なのだ。
取り上げられる身体部分は、「頭部」「感覚」「皮膚」「骨」「心臓」「血液」「手」「腹部」「性器」「足」であるが、この順番については、頭部を最重要視する思想を受けての配列であろう。そもそも中世では、アリストテレスおよび古代ローマの医師ガレノスらの古代医学を継承し、魂は「頭部」「心臓」「血液」にあるとの見方があった。その意味では、頭部を優位に置くアリストテレスの見解に基づきながら、上部から順に下部に下がりながらも身体の内的機能、すなわち感覚や触覚などを優先している配列とみられる。私事にわたり恐縮であるが、私も一九九五年からSPAZIO 誌に「身体をめぐる断章」を連載し、『描かれた身体』『内臓の発見』として単行本化した。その意図は、断片を通じて、身体の歴史を語れないものか、との思いからであったが、その試みは、この『中世の身体』にも共通している。
本書を読み進めるとふつふつと思い浮かぶのは、ノア・ゴードン著作の映画化『千年医師物語 ペルシアの彼方へ』(二〇一六年)だ。一一世紀、イングランドで母を病で失った少年が医学を志してペルシアへと旅する壮大なスペクタクルである。国や人種の概念を超えて広がる広大無辺の中世世界。身体という迷宮ミクロコスモスを覗くことでマクロコスモスとしての中世像を浮かび上がらせる本書は、まさに魅惑的なスペクタクルである。
[書き手]小池寿子(國學院大學教授)