朝日新聞ほか、メディアで大きく取り上げられた新発見の史料『乙夜之書物』を徹底解読し、戦国史最大の謎に迫る。
本書の主眼
『乙夜之書物』(いつやのかきもの)、一度その名を聞くとなかなか頭から離れない史料名だと感じるのは筆者だけだろうか。史料の中身をひもとくと、戦国時代の著名なエピソードに関する記述を数多く含んでいた。とりわけ、本能寺の変に関する情報は、確たる同時代史料が限られる中で、今後の研究に資する貴重な内容をもつ。本書では、その魅力の一端を読者諸賢と共有していきたい。天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀が主君織田信長を突然として本能寺に襲った。世に言う「本能寺の変」である。本能寺の変については、すでに膨大な著述があり、とりわけ光秀の動機をめぐる分析は枚挙にいとまがない。一方で、本能寺での戦いがどのように行われたのか、そこに至るまでに光秀はどのように動いたのか、そして変後の情勢などは、まだまだ考察の余地が残っていると思う。この点を意識的に取り組んだのが、鈴木眞哉・藤本正行氏の研究である。彼らの問題意識や分析視角から筆者は多くのことを学んでおり、折に触れて言及することになるだろう。
さて、『乙夜之書物』という興味深い史料の記述を紹介することに主眼を置く本書は、右のような研究関心に基づき、本能寺の変(光秀の挙兵)だけでなく、山崎の戦いや坂本の落城(光秀方の滅亡)までを視野に入れていく。小林正信氏は「軍勢の規模と政権の転覆を意図した事情から考えて、その実態が大規模な軍事的な反乱であったということは動かないことから、「乱」とする方が論理的に整合」すると説く。また柴裕之氏は、光秀にとって本能寺の変とは、ただ主君の信長を討ち果たすだけではなく、現状の織田権力中枢を打破し、その拠点を掌握することを目的としたクーデターだったと捉えている。これらの提言には賛同したい。このように、本能寺襲撃だけをことさらに取り上げるのではなく、光秀の反乱全体をふまえた呼称こそ求められているのではなかろうか。
天正三年七月三日、光秀は「惟任(これとう)」の名字と、受領名(ずりょうめい)「日向守(ひゅうがのかみ)」を与えられ、それまでの「明智十兵衛光秀」から「惟任日向守光秀」となる〔『信長公記(しんちょうこうき)』〕。ここに、信長が信頼する織田家宿老衆(「御家老之御衆」)の一人としての立場を明確にしていった。なお、信長からは当初「維任(いとう)」の名字を授かったものの、のち「惟任」になったという。拙著では、維任名字を授与されて以降は明智ではなく、維任のち惟任を名乗った事実を重視し、挙兵から滅亡まで光秀方の一連の軍事行動を「惟任光秀の乱」と称したいが、いかがであろうか。
本書の構成
とはいえ、惟任光秀の乱に関する同時代史料の残存に制約があるのもまた事実で、『信長公記』や『惟任退治記(これとうたいじき)』など比較的良質な二次史料が最も参照されるものとなっている。そのような状況を鑑みて、『本城惣右衛門覚書(ほんじょうそうえもんおぼえがき)』のような後年の回顧談や聞き取りなどを、十分吟味した上で史料化しようとする昨今の研究動向があり、本書もそのような試みの一つに数えられよう。以下、拙著の構成を簡単に案内しておきたい。第一章「『乙夜之書物』とその著者」では、本書のメインに据える『乙夜之書物』について、どのような史料なのか、著者はどのような人物なのかなど、基礎的情報を押さえる。記された内容を早く知りたいという方は読み飛ばしていただいても構わない。第二章以降は、史料写真・翻刻・大意を順に示した後、解説という形で私見を書き添えていく。
まず、第二章「『乙夜之書物』が記す織田信長攻め」では、光秀の挙兵から本能寺襲撃までを取り上げる。この間の情報量が最も豊富で、本書でも多くの紙幅を費やすことになるだろう。
次の第三章「『乙夜之書物』が記す織田信忠攻め」では、信長嫡男の信忠が立て籠もった二条御所攻めを主に取り扱う。
つづく第四章「『乙夜之書物』が記す乱の終焉」では、安土城占拠から山崎の戦い、坂本落城のほか、光秀家臣たちのその後もたどる。
また、第五章「『乙夜之書物』が記す戦国エピソード」では、光秀の乱に直面した前田利長の動向、信長の死を堺で知った徳川家康が断行した「神君伊賀越え」、佐々成政が厳寒期の北アルプスを踏破した「さらさら越え」、伊達政宗が死装束で豊臣秀吉との対面に臨んだと伝わる「小田原参陣」など、今日でも著名な逸話に関する『乙夜之書物』の記述を紹介していきたい。
結びの「おわりに」で、光秀の動機に関する私見を少しばかり述べた。なお、ところどころに本文と絡むコラムを組み込んだ。そのほか、付録として『乙夜之書物』の記述内容を一覧化した表を載せた。拙著で言及したエピソードは、全体からすればほんの一部にすぎない。関心のある方はぜひこの表をもとに、実際に本史料にあたっていただきたいと思う。 また、本文の理解の一助とすべく、主な引用史料の解題もつけた。適宜ご参照いただきたい。
『乙夜之書物』は、光秀の乱をはじめとして戦国時代に関する様々な情報を含む、非常に興味深い史料だと思う。とはいえ、まだ研究は緒についたばかりで、本書はそのスタートラインに位置付けられる。『乙夜之書物』を筆者が読んだ時に感じた魅力を読者諸賢に十分伝えられるか、はなはだ心もとないが、どうか最後までお付き合いいただきたい。
[書き手]萩原 大輔(はぎはら だいすけ)
1982年生まれ。富山市郷土博物館主査学芸員。
【主な著作】
『武者の覚え 戦国越中の覇者・佐々成政』(北日本新聞社、2016年)
『謙信襲来 越中・能登・加賀の戦国』(能登印刷出版部、2020年)