日本の迷走の原因は何か?
日本企業に足りないビジョンの持ち方とは?
独立研究者の山口周さんと、ビジョンを掲げ、創業300年の奈良の小さな老舗を全国規模に成長させた「中川政七商店」の中川淳さんによる共著『ビジョンとともに働くということ』(祥伝社)が発売中。この本では、ビジョンのつくり方から、浸透のさせ方、一人ひとりの働き方のヒントまでを事例を豊富に挙げながら考えます。
本書から、山口周さんの「はじめに」を特別公開します。
働くモチベーションが希少な今、ジョンは重要な経営資源
はじめに 問題が希少化している時代に求められること
長く評価されてきた「正解を出せる人」
これまで長いこと、私たちの社会では「正解を出せる人」が高く評価されていました。原始時代以来、私たちの社会は常に多くの「不安」「不便」「不満」という問題に苛まれており、この問題に対して正解を出せる人に大きな富が集まりました。
寒い冬に外で洗濯するのはとても辛い? 洗濯機をどうぞ!
家の中で食べ物を保存できない? 冷蔵庫をどうぞ!
毎日お風呂に入れたらなあ? 湯沸かし器をどうぞ!
そして、このような時代があまりにも長く続いたために、多くの人は未だに「正解を出せる人」に大きな価値があると思い込んでいます。だからこそ、依然として学校教育では「正解を早く正確に出せる人」が高い評価を得て高偏差値の学校へと進学し、社会的に高い評価を得ます。しかし現在、これまでに高く評価されてきた「与えられた問題に対して、早く正確な答えを出せる」だけの人材は急速にその価値を失いつつあります。
なぜか? もはや誰も問題を与えてくれないからです。私たちの社会は「物質的な生存条件の確保」という、古代以来私たちを悩ませ続けてきた問題をすでに解決しています。昭和30年代の日本において、豊かな生活の象徴とされたいわゆる「三種の神器」とはすなわち、冷蔵庫、洗濯機、テレビという家電製品でしたが、今日ではこれらの家電は路上に捨てられていても拾っていく人がいない……つまり「無料でも要らない」と言われるまでになってしまいました。
ビジネスというのは基本的に「問題の発見」と「問題の解消」を組み合わせることによって富を生み出す営みです。過去の社会において「問題」がたくさんあったということは、ビジネスの規模を規定するボトルネックは「問題の解消」にあったということです。だからこそ20世紀後半の数十年間という長いあいだ「問題を解ける人」「正解を出せる人」は労働市場で高く評価され、高水準の報酬を得ることが可能でした。
このボトルネックの関係は、今日では逆転しつつあります。つまり現在の社会では、かつて過剰だった問題が希少になる一方で、かつて希少だった正解が過剰になっているということです。
「問題の希少化」を招いたのは構想力の衰え
では、どのようにして「問題」を発見し、提起するのでしょうか? この論点を考察するにあたって、そもそも「問題とは何か」という点について考えてみましょう。問題解決を専門とする職業=コンサルティングの世界では、「問題」を「望ましい状態と現在の状態が一致していない状況」と定義します。「望ましい状態」と「現在の状態」に「差分」があること、これを「問題」として確定するということです。
したがって「望ましい状態」が定義できない場合、そもそも問題を明確に定義することもできないということになります。つまり「ありたい姿」を確定的に描くことができない主体には、問題を定義することもできない、ということです。
「問題の希少化」という「問題」の本質はここにあります。つまり「問題の不足」という問題は、そもそも、私たち自身が「世界はこうあるべきではないか」あるいは「人間の暮らしはこうあるべきではないか」ということをイメージする構想力の衰えが招いている、ということなのです。
ここで、本書のテーマである「ビジョン」の重要性が浮かび上がってきます。私たちは「ありたい姿」のことをビジョンと表現しますが、つまり「問題が足りない」というのは「ビジョンが不足している」ということなのです。
これは企業にしても産業にしても社会にしても地域にしても個人にしても同様です。取り組むべき問題=アジェンダを明確にすることには企業の、あるいは産業の、あるいは社会の、あるいは地域の、あるいは個人の「ありたい姿=ビジョン」が明確になって初めて可能になります。問題を生み出すことができないというのは、要するに「あるべき姿=ビジョン」が不足している、ということなのです。
日本の迷走は「問題の不足」が原因
私自身は20年以上にわたってコンサルティングの仕事をしていますが、やりにくいクライアントというのは確かに存在します。それは「難しい問題を投げかけてくる人」ではなく、「困ってない人」なんですね。「困ってない人」は助けられません。なぜかというと「困ってない人」というのは問題を持っていないからです。問題を持っていないということはつまり、「会社をこうしたい、社会をこうしたい」というビジョンがない、ということです。ビジョンを持たない人は困ってない、困ってない人は周囲にどれだけ資源があっても活用できないんです。
つまり「困る力」が重要だということです。「正解を出す力」から「困る力」へと価値の源泉がシフトするということです。このシフトによって世界中の企業が影響を受けることになりますが、なかんずく大きな影響を受けることになるのが、我が国、日本です。というのも、日本のビジネスリーダーはこれまで長いこと「問題を解く」ことに長けた人々ではあったのですが、そもそも「問題を自ら提起する」ということをやった人がほとんどいなかったからです。
私たちは明治維新以来、常に「目指すべき目標」が明確に示され、それを目指して努力すれば良い、という状況にありました。国政や軍事については主にドイツやフランスが、企業経営については主にアメリカやイギリスがお手本となり、それらお手本と私たちとを見比べ、目立つ差分を埋め合わせていく、ということをやっていればよかったわけです。これはつまり、日本の社会や組織のリーダーには、これまでビジョンを構想する力が求められてこなかった、ということを意味します。
先ほど「問題とは差分である」ということを指摘しましたね。ということはつまり、かつての日本において、「問題」というのは一種の天然資源のように、放っておいてもどんどん湧いてくるものだったということです。これは非常に恵まれた状況だったと言うしかありません。
7世紀の遣隋使の頃から20世紀後半まで、日本にとっての「問題」は、常に海外先進国との差分というかたちで明確に示されるという、この「恵まれた状況」が、それこそ1000年以上にわたって続いたわけですが、1980年代に入って大変困ったことが起きます。欧米の社会や企業と日本のそれを比較してみても、大きな差分を抽出できない状況が発生したわけです。このタイミングは日本の歴史にとって、決定的な転換点だったと思います。
人類学者の丸山男は『日本文化のかくれた形』のなかで、日本人の基本的な態度は「きょろきょろすること」だと指摘していますね。いつも、どこか外側に自分のところよりも上位の文化があって、「善いもの」は常に外部からやってくる、という基本的な態度です。日本の思想史を通覧してみても、ユダヤ教やキリスト教社会に見られるような一貫した「コンテンツ」は存在しません。しかし、一貫して存在する「モード」があって、それは「外来のものに無批判に飛びついて、それを吞み込んでゆく」という、文明受容の態度だというのです。
だからこそ、私たちの社会ではこれまで「問題を解ける人」が高く評価されてきました。なぜなら「問題」は豊富にあり、それが解ければ何らかの豊かさを生み出したからです。しかし、先述したとおり、「問題解決の能力」は今後、どんどん低価格化が進み、供給過剰の状況になる一方で、当の「問題」は見つけることが難しくなっています。
ビジョンがモチベーションを生み出す
この「あらゆる領域におけるビジョンの枯渇」という問題は、そのままモチベーションの減衰という結果に結びつきます。たとえば社員意識調査の大手、米国のギャラップの調査によると日本企業における「熱意あふれる(エンゲージした)社員」の割合は6%となっており、調査を実施した139カ国中では最低レベルの132位となっています。その他の同類の調査の結果も含めてまとめれば、およそ9割の人は、自分の仕事に「意味」や「やりがい」を見出せていない、つまりモチベーションを感じていないということが示唆されています。
このようなデータに対して、「本当に信用できるデータなの? 日本人はむしろ真面目に仕事をしていると思うけど」と思われる方もおられるかもしれません。恐らくその違和感は正しいと思うのですが、今後はその「真面目さ」を支えていた社会要因が解体されることで、モチベーションの希少化という問題はより深刻さを増していくことになるだろうと思います。その社会要因とは言うまでもありません、リモートワーク化の進行です。
仕事にやりがいを感じていないのに、それなりに真面目に働いているのはなぜか? それは周りの目があるからです。クダラナイと思っている仕事であっても会社にいて上司や同僚の目がある以上、堂々とサボってデスクで漫画を読み続けるには相当の根性が必要でしょう。仕事というのはツマラナイものであってもそれなりの暇つぶしにはなりますから、ストレスを感じながら漫画を読み続けるよりも適当にダラダラやって時間を過ごしていれば、夕方になって帰社する時間が来ます。しかしこれがリモートワークになると何が起きるか? おそらく、もともとモチベーションの低かった人たちの生産性はさらに低下することになるでしょう。こうなると組織は遠心力の高まりによって空中分解することになります。
では高まる遠心力に抗って組織にエンゲージさせるための求心力はどのようにして生み出せるのか? 答えは「求心力を生み出すビジョンが今こそ必要だ」ということになります。
人のモチベーションは可変量関数
ビジョンを示して求心力を生み出すリーダーが、なぜ大きな成果を生み出せるのか? その理由は資源の可変性にあります。わかりやすく言えば、人の生み出す成果の大きさは「モチベーションの量=意味合い」によって大きく変わるのです。経営資源として挙げられるヒト・モノ・カネのうち、ヒトにだけあってモノとカネにはない最大の特徴は、その「可変性」です。モノもカネも一旦確定すれば、その後で量が変わるということはありませんが、ヒトの能力はそれを導くリーダーの意味の与え方によって簡単に増減します。リーダーがビジョンを示すことで仕事に意味が生まれ、その意味がヒトという資源から大きな価値を引き出すのです。ここで重要なのが、経営資源としての人の能力を動的にとらえるセンスです。
現在、日本でもいわゆる「人材アセスメント」を導入する企業が増えています。一般的な人材アセスメントでは、コンサルタントによるインタビューや360度評価を通じて対象となる個人のコンピテンシーを数値化し、その結果に基づいて登用・育成・配置の意思決定を行ないます。このアプローチは非常に合理的に聞こえるかもしれませんが、往々にして「合理的なアイデア」は「単なる浅知恵」であることが多いので注意が必要です。決定的なのは、個人の持つ能力を「静的なもの」として考えている、その世界観です。
これがなぜ問題かというと、人が発揮する能力やコンピテンシーは、その人に対して与えられた「意味」によって大きく変わってしまう、つまり文脈依存的で非常に「動的」なものだからです。何らの「意味」も与えられていない状態で動機付けされていない人を評価すれば、その人が発揮している能力やコンピテンシーが低く判断されるのは当たり前のことです。昨今では「部下がだらしない、使えない」と嘆いている管理職がどこの組織でも見られますが、本当に嘆くべきなのは、「部下を動機づける『意味』が与えられない」自分の不甲斐なさであるべきでしょう。
「意味を求める世代」の台頭
他者からモチベーションを引き出すには「意味」が重要であるとすれば、この「意味」を与えられるかどうか、つまり「自分はこれを目指して仕事をしているのだ」という「共感できるビジョン」を示すリーダーの能力こそが、組織の競争力を左右することになります。特に、これから先、多くの組織において中核をなすことになるミレニアル世代(1980年から2000年までに生まれた世代)の人々は、「意味」の有無に対して極めてシビアな評価視線を持っています。
たとえばコンサルティング会社のデロイトが2015年に世界に行なった調査によれば、就職先を選ぶ基準として、給与でも製品でもなく、「その企業が事業を行なっている目的」を重視すると答えた回答者が6割を超えています。また、英国のガーディアン紙によるミレニアル世代を対象とした調査では、高い給料をもらうよりも人のためになる仕事をしたい=44%、勤務先が社会に貢献していると働く意欲が増す=36%となっています。この社会貢献志向とも言えるミレニアル世代の傾向はリクルートワークス研究所による調査でも指摘されていますね。つまり、彼らは職業選択にあたって、極めて「意味」を重視している、ということです。
このような傾向について「最近の若者は草食系で元気がない」という指摘をする年長者もいるようですが、これは自分の枠組みでしか世界を評価できない典型的なオールドタイプのコメントと言えます。まったくそうではなく、むしろ「社会をより良い方向に変化させたい」というエネルギーのレベルはミレニアル世代のほうが高く、その発露の仕方や方向性が違うということなのです。
現在の年長者がまだ若者だった1980年以前の時代は「モノ」が希少で「意味」が充足している時代でした。一方で現代という時代は先述したとおり「モノ」が過剰で「意味」が希少になっています。つまり、いつの時代にあっても、その時代の「若者」というのは、常に「その時代に足りないもの」についてハングリーなだけだということです。「モノ」が過剰に溢れる一方で、「意味」が枯渇している社会にあって、若者が「モノ」に対してハングリーになれないのは当たり前のことです。
ビジネスと社会課題の解決をつなぐのがビジョン
「逸材をめぐっての企業間の競争= War for Talent」が、今日の企業の競争優位を形成する上で最重要の論点として取り上げられるようになったのは、2000年前後以降のことです。21世紀に入って大きな存在感を示している会社の多くが「ビジョン」や「パーパス」を明確に定義しているのは、このような世界状況において才能ある人材を集め、彼らの潜在能力を全開させるためには「意味」が重要だということをよく理解しているからです。たとえば2022年1月現在、自動車製造企業としては世界最大の時価総額となっているテスラは、「化石燃料に依存する文明をサスティナブルなものに変える」という壮大なビジョンを掲げています。このビジョンにモビリティというニュアンスがまったく含まれていない点に注意してください。ほとんどの自動車会社は、そのビジョンやパーパスに何らかの移動に関する言葉を含めています。これはつまり、テスラと従前の自動車会社とでは、目指しているところがまったく違うということなのです。
ビジョンを打ち出すことで問題が生み出されるという冒頭の指摘を思い出してください。テスラが登場してくる前、現在の自動車産業のあり方に問題を感じている人はごくごく少数しかいませんでした。イーロン・マスクが新しい社会のあり方をビジョンとして提示したことで、石油に大きく依存する産業のあり方に問題の視線が向けられることになったのです。なぜだと思いますか? 「いま、ここにある世界のあり方」とは異なるビジョンを提示された多くの人々が、そのビジョンに共感したからです。起業家が提示したビジョンによって、これまでごく一部の人しか意識することのなかった社会課題が、世界的に共有される課題になったのです。
先進国における物質的不足という課題はほぼ解消されましたが、全世界には未ださまざまな課題が残存していることも確かです。この課題をビジネスという営みを通じて解消していくことを考えたとき、やはり鍵になってくるのがビジョンだということになります。
ビジョンの重要性はよくわかった、ではどのようにしてビジョンを描き、伝え、浸透させていけばいいのでしょうか? ここから先は本文へと進んでいただければと思います!
[書き手]山口周