書評
『ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく』(ダイヤモンド社)
獄中生活がもたらした「共生」へのパンセ
二〇〇六年一月、時代の寵児(ちょうじ)だった著者は東京地検特捜部に証券取引法違反で逮捕され、懲役二年六カ月の実刑判決を受けた。本書は、仮釈放後に著者が来し方行く末を綴(つづ)った自伝的回想の一つだが、予想していた以上におもしろい。パスカルを連想せずにはいられなかったからだ。
パスカルはいう。
わたしは(中略)人間のあらゆる不幸はたった一つのことから来ているという事実を発見してしまった。人は部屋の中にじっとしたままではいられないということだ。(『パンセ抄』拙訳)
東京拘置所に身柄を拘束されたときのことを著者は次のように回想している。
逃げ場のない独房の中、誰とも会話することなく、なにもしないで暮らす日々。言葉にするとなんでもないことのようだが、これがどんなに耐えがたいことか。
著者はご存じのようなインターネット長者で、四六時中ネットや携帯電話でだれかと連絡をとっていた身である。それが、担当弁護士を除くと外部との連絡をいっさい禁じられたのであるから、その隔絶された環境を地獄と感じたのも無理からぬところである。
この孤独地獄に比べれば、移送先の長野刑務所の生活のほうがはるかにましだったという。工場での仕事をつうじて受刑者との交流があったからだ。そして、その交流の中から「働きたい」という願望が目覚めてくる。
思えば僕は、ずっと前から知っていた。働いていれば、ひとりにならずにすむ。働いていれば、誰かとつながり、社会とつながることができる。そして働いていれば、自分が生きていることを実感し、人としての尊厳を取り戻すことができるのだと。だからこそ、僕の願いは『働きたい』だったのだ。
本書の読み所は「何のために働くか」についての著者なりの哲学が披露されるところだが、私としては、著者の「働きたい」という願いがどこから来たのかを告白した幼年時代の思い出に興味を持つ。すなわち、小学校一年のとき、堀江少年は学校からの帰り道、突然、「僕は、死ぬんだ」という恐怖に襲われる。死の恐怖はその後も襲ってきたが、起業してからは意識されなくなった。
おそらくこれは、僕なりの生存戦略だったのだ。なにかに没入することで、死を遠ざける。死について考える時間を、可能な限り減らしていく。僕は死を忘れるために働き、死を忘れるために全力疾走し、死を打ち消すために生を充実させていたのだ。
ところで、パスカルは先の引用に続いて次のように結論しているのである。
わたしたちの不幸の原因を発見したあとで、さらに一歩踏み込んで考察を巡らし、なぜそれが不幸の原因となるのか、その理由を発見しようと努めたところ、非常に説得力のある理由を見いだした。それは、わたしたちの宿命、すなわち、弱く、死を運命づけられた人間の条件に固有の不幸にあるのだ。
本書は、獄中生活を経験することで、生きること、働くこと、そして他者と共生することの意味を見いだした著者の『パンセ』である。
刑務所の中でもひたすら働くことを願ってきたのは、ワーカホリックだからじゃない。仲間たちと分かち合う時間の中に、再び身を置きたかったからだ。(中略)バックミラーを見るのは、もうたくさんだ。有限の人生、絶望しているヒマなんかないのである。
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