書評
『新装版 翔ぶが如く』(文藝春秋)
「明治」という時代を鮮やかに
明治の新政府が築いてきた近代化の道は、現代にまでさまざまな糸をひいている部分が少なくないが、そうした問題にたいする私たちの知識は意外にとぼしい。明治をすでに歴史的な過去として、内外の諸事件を羅列的にみる理解か、さもなければ個々の人物の事績にだけ即したとらえかたをする場合が多く、それらの諸人物のもつ錯綜した力関係が、意識的、無意識的にからまりあって、政治の動きをみちびき出すといった、総合的、流動的な認識や、そこに投影された思想や感情が、現代にも連なる日本人の諸性格をうつしているという分析は、あまりなされなかったのではないだろうか。司馬遼太郎は乃木神話のベールをはがした「殉死」あたりから、明治期を素材とするようになったが、その後時代の青春を描いた「坂の上の雲」で明治期にきりこむひとつの方法を身につけた。それは作者一流の合理主義的な史観にもとづき、歴史上の諸人物の動きをとおして、時代の流れを総合的にとらえるやりかたであり、彼はその方法を駆使して、明治という時代の雰囲気をあざやかに描き出した。
だが明治期の問題を追求する以上、その原点となるのは、何といっても明治国家の創成期である十年ころまでの歴史であり、そこに目をとめないわけにはゆかない。「翔ぶが如く」はその宿題を作者なりにはたした答案だといえよう。
この時期はゼロから出発した新政府が、山積する問題を抱え、苦難にもまれながら急速にその体制を確立していったときだけに、そこにメスを加えることは容易でなかったであろうが、彼は西郷隆盛という一人物を一方の極におき、その像を陰画としてとらえることで、全体の流れを俯瞰しようとこころみた。
「翔ぶが如く」の背景となっているのは、征韓論から西南の役までの数年間だが、作者はその間の政治・外交等の具体的な経過をたどるとともに、西郷と対極に位置する大久保利通をはじめ、この二人に旧藩主後見役として微妙な圧力を加える島津久光、大久保と異なる国家構想を抱く江藤新平、西郷の腹心でありながら警察制度の確立をめざして大久保に近づく川路利良、長州人の意識を代表する木戸孝允や伊藤博文、あるいは西郷をとりまく桐野利秋や篠原国幹などの鹿児島人たち、その他多くの人々のそれぞれの動きを、きわめて自由な筆法で描き出し、その性格や意識についても詳細な分析を加えている。
西郷の像にも多角的な光をあて、維新の成立までは現実政治の把握を誤らなかった西郷が、それ以後巨大な感情の器と化し、没落士族への同情や権力者への批判が優先して、新政府のもつ矛盾を一身にひきうけたような存在となったことを、それに不気味な脅威を感じつづける人たちとの対照で語っているのが興味ぶかかった。
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