いきいきと伝わる漢楚の激突
司馬遼太郎に「洛陽の穴」というエッセーがある。「長安から北京へ」の一篇だが、一九七五年に洛陽へ行って、含嘉倉(がんかそう)とよばれる地下食糧庫を見学したおりの驚きを記していた。彼はそのとき、劉邦が項羽と争った末期、黄河流域の成皋(せいこう)や滎陽(けいよう)から劉邦が動かなかったのは、その近くに穀物を貯蔵した穴倉があったからではないかと、一瞬さとったという。「項羽と劉邦」は漢楚の激突を筆太に描いた歴史ロマンである。秦の始皇帝は諸国を統一して戦国時代に終止符をうったが、その死とともに法家思想による実験国家のタガがゆるみ、陳勝・呉広の叛乱がおこり、争乱の時代へ突入する。その中にあって沛(はい)の劉邦と楚の項羽とが天下をわけて争い、あいつぐ敗北を喫しながらも、劉邦が最後にその栄冠を獲(か)ち得るまでの歴史を、きわめて現代的に語っている。
司馬遼太郎は若いころ、馬賊になることを夢み、「史記」の世界にあこがれ、その思いを司馬遷にあやかった筆名に託したといわれているだけに、中国の興亡史にたいしてはふかい関心を抱き、それがこの「項羽と劉邦」に結晶したといってよかろう。
巡幸の途中、始皇帝が歿するあたりから筆をおこし、項羽が烏江(うこう)のほとりで自刃して果てるまでの七、八年の歴史だが、戦国の気風が残っていた時代だけに、人間の可能性も大きく、儒家、兵家、老壮の徒、縦横の策士などが、時代のルツボの中でしのぎをけずりあうさまが、いかにもおもしろい。とくに「士」の存在に作者は注目しており、思想と志をもって天下を闊歩する士の姿は、一種爽快な味をしめしている。
司馬遼太郎は沛のごろつきあがりだった劉邦を、戦いには弱いが人間が大きく、その器にあらゆる人材を吸収できるふしぎな魅力があったといい、その半面、楚の項羽は武将としてすぐれ、その戦いぶりは鬼神を思わせるものがあったが、政治感覚に欠けていたことが衆望をあつめ得なかったとしており、揚子江下流地帯をバックとする項羽は、兵站(へいたん)を確保できないまま東奔西走したが、劉邦はすでに述べたように、食糧倉をかかえて戦い、ねばりぬいて最後の勝利を手に入れたのだと解釈している。このような歴史認識はいかにも現代的で、中国史に暗い一般の読者をも納得させるに違いない。おまけに項羽と劉邦といった英雄たちだけでなく、武将や策士など、綺羅星(きらぼし)のような各種の群像を、直截な筆で描いており、随所に歴史の故事や逸話をはさんで、人間や風土をいきいきととらえている。
この物語の時代は紀元前二百余年ころだが、日本では稲作文化の渡来する前後にあたる。そういった古い時代を現代ふうに物語る技量は、作者の語り口の妙味にあるようだ。