後書き

『女性ジャズミュージシャンの社会学: 音楽性・女性性・周縁化』(青土社)

  • 2023/05/30
女性ジャズミュージシャンの社会学: 音楽性・女性性・周縁化 / マリー・ビュスカート
女性ジャズミュージシャンの社会学: 音楽性・女性性・周縁化
  • 著者:マリー・ビュスカート
  • 翻訳:中條千晴
  • 出版社:青土社
  • 装丁:単行本(288ページ)
  • 発売日:2023-04-12
  • ISBN-10:4791775430
  • ISBN-13:978-4791775439
内容紹介:
フランスのジャズ界での長期にわたるエスノグラフィー調査によって、女性ミュージシャンの置かれた状況を構造的に紐解いていく。
芸術世界におけるジェンダー平等の議論に一石を投じ、フランスで大きな評判を呼んだ『女性ジャズミュージシャンの社会学(原題:Femmes du jazz)』。本書を翻訳された中條千晴さんによる「訳者あとがき」の一部を公開します。

ジェズ、ジェンダー、エスノグラフィー

マリー・ビュスカートと初めて出会ったのは冬のブダペスト、女性と音楽をテーマにした国際学会だった。国際学会における初めての英語での研究発表で全く緊張しきっていた私と同じパネルにいた彼女が、「私も日本についての発表をするんだよ」と軽快に話しかけてくれた。話を聞くと、私の博士論文を読んでくれていたという。練習になるからと終始英語で会話し、(今思えば引く手数多だったろうに)学会のあいだずっと隣にいてくれたのを今でも憶えている。世間知らずな私は、その後に彼女が、ハワード・ベッカーの同僚であり、ヨーロッパの文化と労働の社会学では名のある研究者であることを知る。思えばこの学会から、私とマリーの冒険(月並みだが私たちはそう呼んでいる)が始まったのである。この日以来彼女とは、毎週(ほぼ毎日と言ってもいいかもしれない)のようにメールでやりとりし、面白かった映画や小説の話をし、今後の研究プロジェクトのアイデアを出しあったりしている。現在では、ジェンダーと現代日本の音楽のセミナーや、ジェンダーに基づく暴力と音楽の研究プロジェクト、その他さまざまな執筆の企画など、多方面で活動をともにさせていただいている。

マリー・ビュスカートが本書の根幹となる調査に取り組み始めたのは二〇〇三年。当時のフランスでは、社会学においても音楽学においても、本書のような視点を持ってジャズ(とその世界の構造)を扱った研究は皆無であった。英語圏においても、過去の女性ジャズミュージシャンを音楽史から再発見し、その社会的位置を再考する歴史研究的なアプローチを用いたものがいくつかある程度だったという。彼女が調査を進める中、フランスの芸術文化界を揺るがす出来事が起こる。二〇〇六年、当時のフランス文化・通信省(二〇一七年より文化省に改名)が「ライブパフォーマンス部門における責任のある地位、意思決定の地位、代表権の管理への女性および男性の平等な参加のために」と題された第一次報告を発表したのだ。この報告により、芸術文化の世界における男女平等の問題が浮き彫りになる(ちなみに著者の「あとがき」にも記述されていたが、この報告書がきっかけとなり、二〇〇八年、芸術文化における男女平等に関する地域連合会が発足し、次々と地域支部ができる事になる)。このような社会的文脈において二〇〇七年に第一版が刊行された本書は、瞬く間に大きな評判を呼び、学術書としてはかなり一般的に広まった。したがって本書はフランスのジャズ界にジェンダー平等の議論を巻き起こすきっかけとなったと言える著作である。

本書において著者は、ジャズの世界に潜む「水平方向」(ジェンダーに基づいた音楽的な役割の棲み分け)と「垂直方向」(いわゆる「ガラスの天井」の問題)の二つに交差したジェンダーに基づく差別の構造を明らかにする。ジャズ界で活躍する女性たちを「シンガー」と「器楽奏者」に分け、エスノグラフィー調査、つまりフィールドワークと観察、聞き取り、資料調査を基にした、洞察に富んだ分析が二部構成で展開される。読者は本書を読み進めていく中で、女性シンガーと女性器楽奏者を取り巻く環境について、上述の二重に交差したジェンダー差別が、単なる男性による女性嫌悪(ミソジニー)的な姿勢や男性主義的な観点に起因するものではなく、より複雑な構造を持っていると次第に気づかされる。そして女性ジャズミュージシャンをめぐるジェンダー差別は、ジェンダーをめぐる「社会過程」(社会を構成する個人や集団からの情報が、私たちの思考、行動、感情に影響を与える一連の動的過程)がその根幹を成していることを徐々に理解する。本書の最後では、そのような社会構造において女性ミュージシャンが「逸脱」を行うためには、支援してくれる家族や男性配偶者とそのネットワーク、自らの女性性を利用していく技術、あるいは逆に女性であることの性的魅力を封じる技術が必要であり、彼女たちが逸脱するための資源ですら社会的に構築され、再生産されているものであることが分かる。

本書の「まえがき」においてハワード・ベッカー氏も称賛していたように、本書、言い換えれば著者のこの研究は、彼女の質的調査の専門家としての技量がなければ成り立たなかった内容でもある。質的調査の根幹を成すフィールドワークやインタビューにおいては、調査者と対象者との距離が調査結果を左右すると言っても過言ではない。対象者と距離がありすぎるのはもってのほかだが、近すぎても客観的な分析の妨げになる。本書に紹介されている証言の様子から、著者が調査対象であるミュージシャンたちと絶妙な距離感を保ちながらジャズの世界に入り込み、考察を行っているのが伝わってくる。例えば、フランス語は二つの二人称をもち(vous とtu)、距離の近しい間柄では「tu」を使用することが多い。本文に紹介されている証言では、聞き取り対象や観察対象になったミュージシャンのほとんどが著者とこの親しい間での二人称を使用している。さらにインフォーマントと著者の距離の近さが彼らの言葉の節々に表れており(この空気感を忠実に再現するため、本書における証言はあえて口語で翻訳している)、それが証言の信憑性と、調査そのものの綿密さを物語っている。もちろん、著者のアマチュアジャズシンガーとしての立場が大いに有利に働いていることもあるだろうが、それでも、女性シンガーに対し嫌悪感を隠さない男性器楽奏者の証言も幾度となく取り上げられていることも考慮すれば、著者のエスノグラファーとしての資質が窺える。そして、著者自身も「方法論についての付録」で記述しているように、それらの証言を資料調査により補完し、先行研究に鑑みながら入念に分析と考察を重ねている。本書はそのような意味で、文化社会学・労働社会学・エスノグラフィーを学び、実践する研究者たちにとっても有用な一冊である。

[書き手]中條千晴(ちゅうじょう・ちはる)
1985年生まれ。東京外国語大学国際日本学部特任講師。専門はメディア文化論、フェミニズム。
女性ジャズミュージシャンの社会学: 音楽性・女性性・周縁化 / マリー・ビュスカート
女性ジャズミュージシャンの社会学: 音楽性・女性性・周縁化
  • 著者:マリー・ビュスカート
  • 翻訳:中條千晴
  • 出版社:青土社
  • 装丁:単行本(288ページ)
  • 発売日:2023-04-12
  • ISBN-10:4791775430
  • ISBN-13:978-4791775439
内容紹介:
フランスのジャズ界での長期にわたるエスノグラフィー調査によって、女性ミュージシャンの置かれた状況を構造的に紐解いていく。

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