書評
『背負い水』(文藝春秋)
いきなりミもフタもない言い方になるが、私の心からの叫びだ。お願いですから、純文学のかたがたには「今、時代をどのようにとらえるか」なんていうことは考えないでいただきたい。
ほんとうに書きたいものを書く。言葉で表現せずにはいられないものを表現する。文学はそれがすべてだ。
「時代」だの「世の中」だの「今」だのなんてどうでもいい。ひたすら自分の内面に執着して書く。そんなふうに背を向けて書いたとしても、その人がすぐれた感性の持ち主であったとしたら、どこかで「時代」の核心をついてしまうだろう。狙わずして「時代」と通底してしまうだろう。なぜなら、文学者と言えども生身の人間で、この時代に具体的に生活していて、その中で「書きたい!」という欲望も生み出されているわけなのだから。
今の文学作品がどうしようもなく時代ズレしていて面白くないとしたら、それはとても単純なことだ。書きたいものがないのにムリヤリ書いている、表現せずにはいられないものがないのにムリヤリ表現している。だから、つまらない。人々の心をとらえられない。それだけのことだと私は思う。
たいした欲望も衝動もなくムリヤリ書くなんて馬鹿馬鹿しいことはサッサとやめたらいいじゃないか、と思うが、昔から「文学青年」「文学少女」と呼ばれる、書くこと自体読むこと自体が好きという趣味の人たちがいつの時代にも一定数存在しているんだから、しょうがない。文芸誌はそういう人たちの機関誌と思えばいいのかもしれない。
文学者が「時代」なんか気にして、ろくなことはない。「狙って、はずす」ほどかっこ悪く悲惨なことはない。八〇年代という、大いなるサブ・カルチャー化の波を浴びてしまったせいか、近ごろは文学界の権威たちもオドオドと「時代」を気にするようになってしまったようだ。当世風のよそおいの文学作品に妙に弱い。いきなり読解力が低下する。
かくして一般大衆は、荻野アンナ『背負い水』(文藝春秋)を、一九九一年の傑作として読まされるはめになるわけである。一九七〇年代のさだまさしのキレの悪いギャグである「ませませ」や、まともな感性を持った人間なら口が裂けても言えない「フリーター」なる低級造語や、下品な酒場女みたいな「卵以前の女優の卵子」という比喩や、通俗ポルノみたいな「ジュリーとわたしは二枚の平面のまま同じ羊水の中をネラネラと漂っていく」というレトリック……こんな、はずした小説を、「今」のものとして読まされるのである(荻野さんばかり責めるのは心苦しいが、あまりにも端的に典型的に今の文学界のおがしさを象徴しているので、ついつい)。
私が「当世風の小説」に背を向け、ひたすら夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎……といった昔の作品ばかり読んでしまうのも無理はないと思う。
【この書評が収録されている書籍】
ほんとうに書きたいものを書く。言葉で表現せずにはいられないものを表現する。文学はそれがすべてだ。
「時代」だの「世の中」だの「今」だのなんてどうでもいい。ひたすら自分の内面に執着して書く。そんなふうに背を向けて書いたとしても、その人がすぐれた感性の持ち主であったとしたら、どこかで「時代」の核心をついてしまうだろう。狙わずして「時代」と通底してしまうだろう。なぜなら、文学者と言えども生身の人間で、この時代に具体的に生活していて、その中で「書きたい!」という欲望も生み出されているわけなのだから。
今の文学作品がどうしようもなく時代ズレしていて面白くないとしたら、それはとても単純なことだ。書きたいものがないのにムリヤリ書いている、表現せずにはいられないものがないのにムリヤリ表現している。だから、つまらない。人々の心をとらえられない。それだけのことだと私は思う。
たいした欲望も衝動もなくムリヤリ書くなんて馬鹿馬鹿しいことはサッサとやめたらいいじゃないか、と思うが、昔から「文学青年」「文学少女」と呼ばれる、書くこと自体読むこと自体が好きという趣味の人たちがいつの時代にも一定数存在しているんだから、しょうがない。文芸誌はそういう人たちの機関誌と思えばいいのかもしれない。
文学者が「時代」なんか気にして、ろくなことはない。「狙って、はずす」ほどかっこ悪く悲惨なことはない。八〇年代という、大いなるサブ・カルチャー化の波を浴びてしまったせいか、近ごろは文学界の権威たちもオドオドと「時代」を気にするようになってしまったようだ。当世風のよそおいの文学作品に妙に弱い。いきなり読解力が低下する。
かくして一般大衆は、荻野アンナ『背負い水』(文藝春秋)を、一九九一年の傑作として読まされるはめになるわけである。一九七〇年代のさだまさしのキレの悪いギャグである「ませませ」や、まともな感性を持った人間なら口が裂けても言えない「フリーター」なる低級造語や、下品な酒場女みたいな「卵以前の女優の卵子」という比喩や、通俗ポルノみたいな「ジュリーとわたしは二枚の平面のまま同じ羊水の中をネラネラと漂っていく」というレトリック……こんな、はずした小説を、「今」のものとして読まされるのである(荻野さんばかり責めるのは心苦しいが、あまりにも端的に典型的に今の文学界のおがしさを象徴しているので、ついつい)。
私が「当世風の小説」に背を向け、ひたすら夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎……といった昔の作品ばかり読んでしまうのも無理はないと思う。
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