便利なものを、使わない人がいるのはなぜか?
私が本書に出会ったのは2021年10月で、「ウォールストリート・ジャーナル」誌のベストセラーに2週連続で選定されて話題になったことがきっかけである。原著の副題 Overcoming the resistance that awaits new ideas(新しいアイデアを待ち受ける抵抗に打ち勝つ)を見た瞬間、「まさにその通り!」と思ったことを覚えている。仕事上、スタートアップ企業とおつき合いする機会が多く、素晴らしいアイデアを持つイノベータ(革新的なものごとに挑戦する人)をたくさん見ている。取り組む対象やアプローチは様々だが、いずれも社会が抱える問題に関心を寄せ、新しい技術や発想の転換で解決し、人類社会に役立つ存在になるという大きな志を持って臨んでいる。しかし、しばしばそのアイデアが斬新だったり、未知のものだったりして、採用してくれる顧客を見つけるのに苦労するというケースが多々ある。アイデアに共感する人は多いものの、いざ自分が最初に採用するとなると逡巡するという場面も目にしてきた。思えば、私たちは、日々の生活でも新しいものを目にするし、思いもつかない革新的なアイデアに触れることはある。それが普段の延長線上で便利にしてくれるようなものだと受け入れやすい。テフロン加工のフライパンが出現したときは、(理屈がまったく分からなくても)喜んですぐに買ったものである。一方で、便利だとか手軽だとか言われても、受け入れることに逡巡する人がいるケースも多い。身近なもので言えば、クレジットカードやインターネットショッピングなどは典型であろう。使い始めれば生活スタイルに劇的な変化をもたらすが、使いたがらない人もいる。その理由は様々で、良い悪いという話ではない。個人の価値観の問題であり、それぞれに選択の自由がある。ところが、これが社会全体の将来に関わるとなると話が変わってくるかもしれない。
変化できないと、社会の活力が奪われることも
日本は今、失われた30年と言われる停滞の時代の挽回に加え、デジタル化の遅れでここ数年の間に表面化した企業、政府、市民生活(家計)のあらゆる面での非効率を解消するため、官民揃ってDX(デジタル・トランスフォーメーション)やイノベーションによる産業、社会の変革が叫ばれている。政府にはデジタル庁が設置され、デジタル社会の実現に向けた重点計画として、マイナンバー制度の利活用拡大や医療・教育・防災などの分野でのデジタル技術の活用などが方針として盛り込まれた。イノベーションの面では、従来の科学技術・イノベーション基本計画に加え、最近は産官学でスタートアップ企業支援策が次々と打ち出されている。一方、実行面を見ると、慣れ親しんだ生活スタイルや業務プロセスの変更の難しさや、新しい技術やサービスへの不信感、起業マインド、変革マインドを持つ人材の不足など、変革を阻む様々な事態に直面している。変革が進まない場面はどこか一カ所に集中しているわけではなく、たとえば企業におけるデジタル化では、経営者が受ける現場マネージャからの抵抗、逆に現場からのデジタル化の提案に難色を示す管理職の抵抗、働き口がなくなるのではと恐れる人々からの抵抗などさまざまなケースがある。普段の生活や商売でも同様で、授業のオンライン化や教材のデジタル化への抵抗、せっかく置いたキャッシュレス端末がほとんど使われないお店、お客様がいつでも参照できるようにと電子マニュアルを勧めても、紙のマニュアルをちょうだいと言われるメーカのセールス担当者など、枚挙にいとまがない。私たち自身も、ある場面では変化を進める側としてふるまっても、別の場面では変化に抵抗する側になったりと、本当にいろいろである。
本書は、さまざまな場面で出くわす変化への抵抗に対し、どうしたらうまく対処できるかのヒントを与えてくれる。企業では経営者、中間管理職のみならず、現場の改革推進者やセールス担当者など幅広く役立つであろうし、スタートアップ企業のリーダにも大いに参考になる。また、政府、自治体、NPO、NGO、学校、病院から家庭まで、様々な立場でデジタル化の推進や変革の旗振り役を担う方々への助けになると信じる。日本のあちらこちらで同様な抵抗に直面している方々が多く、今後もますます増えるというのが肌感覚であり、今まさに本書を紹介すべきと考えた所以である。ちなみに、日本と同様に変革が求められている欧州、中東、アジアの各国でも続々と訳書が出版されつつある。
学問の場と実践の場の双方で鍛えられた理論
著者のデイヴィッド・ションタル氏とロレン・ノードグレン博士は、ともにノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院の教授である。ションタル氏は、いくつかのコンサルティング会社を経て自らスタートアップ企業を経営した経験を持つ。またデザインファームやベンチャーキャピタルでの経験も豊富で、同大学では学生の起業を支援するプログラムのダイレクターを務め、まさにイノベーションを推進する立場にある。日本では、デザイン主導で新ビジネスに挑戦するスタートアップ企業を支援するベンチャーキャピタルのグローバルアドバイザーもしている。本書では、ションタル氏の実践から得たヒントがふんだんにちりばめられているが、本書に出てこない日本での事例も多く持つ。同業という関係もあり、ションタル氏は私の良き友人でもある。ロレン・ノードグレン博士は行動心理学の専門家で、経営管理、組織論の教鞭をとっている。実験心理学の研究から企業の組織変革のアドバイスまで、理論と実践をつなぐ新進気鋭のリーダであり、研究、実践、教育の各面で数々の受賞をしている。ノードグレン博士は、目的に応じて人や組織の行動を正しく変化させることを行動デザインと呼んでいる。心理学とデザインの融合であろう。本書のバックボーンとなっている理論面の裏づけはノードグレン博士による部分が多く、単なる事例紹介にとどまらない重厚な理論武装が魅力である。二人が提唱する抵抗理論(Friction theory)は学術界、産業界双方から認められつつあり、その理論を実践するためのツールとして具現化したものが「抵抗レポート」である。
懸命に売り込んでもうまく行かない理由とは?
本書は、うまく変化を起こせないという多くの人が直面している問題に対し、人的要素に焦点を当てて解決策を探った点が画期的である。アイデア自体の創出方法やフレームワークを解説する書籍は多くあるが、人間の本質(本性)を認めて、正面から向き合ったことが本書の特徴である。著者は冒頭の2章で、新しいアイデアで人に変化を促そうと試みる際、我々がいかに間違ったアプローチを取っているかを徹底的に解説する。銃から発射される弾丸の例を取り上げ、弾丸に推力を与える「燃料」と重力や空気の存在で生じる「抵抗」の関係を、新しいアイデアとそれを受け止める人の反応の関係になぞらえた分かりやすいアナロジーから入るが、やがて読者の誰もが共感する事例を用いて間違いを指摘する。その間違いとは、人に変化を促すためにせっせと燃料をくべる(アイデアを売り込む)ということである。燃料を増やして弾丸を遠くに飛ばそうとすればするほど、抵抗も大きくなるということに気づかないでいるという。アイデアを売り込むだけでなく、同時に生じる抵抗に目を向けようというのが発想の原点である。
変化を拒む「4つの抵抗」とは何か?
著者が提唱する抵抗理論では、新しいアイデアを提案すると4つの抵抗「惰性(inertia)」「労力(effort)」「感情(emotion)」「心理的反発(reactance)」に遭うとしている。詳細は本編に譲るが、おおよそ以下のようなものである。「惰性」:自分が馴染みのあることにとどまろうとする欲求。
「労力」:変化を実行するために必要な努力やコスト。
「感情」:提示された変化に対する否定的感情。
「心理的反発」:変化させられるということに対する反発。
3章から10章は、4つの抵抗のそれぞれについて、抵抗自体の解説とそれを克服する方法がペアで示される。著者が実際に受けた相談や関わったプロジェクトの事例を使って解説されるため、机上の論ではなく、具体的なイメージとして捉えやすい。また、裏打ちする研究成果や活用できる手法、思考法も適宜紹介されるため、腹落ちする。4つの抵抗の解説はそれぞれ独立しているので、読者は必要な章だけピックアップして読むこともできる。最後の11章は著者が携わった実例の紹介である。著者が考案した「抵抗レポート」の使い方の手引きにもなっている。
なお、読者の中には「感情」と「心理的反発」の区別が難しいと感じる方がいるかもしれない。私からのお勧めは、「感情」はアイデアそのものに対する反応、「心理的反発」はアイデアを提示する人や方法に対する反応と捉えることである。理解の助けになれば幸いである。
抵抗の解消には、人間の本性に働きかけることが大事
本書はハウツー書だが、“How to do”ではなく“How to think”の本である。本書で紹介される理論や手法は以前からあるもので事足りる。ジョブ理論、エスノグラフィー、UXデザイン、ナッジ、トヨタのなぜなぜ思考法など、使いたければ既存の解説書を開けば良い。本書が焦点を当てるのは、何を問題として捉え、何に注意を払い、どういう視点で考えれば良いかという点である。特に、問題に対処する姿勢として、人間の本質(本性)を否定するのではなく、むしろうまく使うことを推奨する。たとえば、人間に生来備わっているショートカットを求める性質や馴染みのあるものを好む性質、ものごとの判断の際に相対的な比較に頼る傾向などである。行動心理学を専門とするノードグレン博士ならではの姿勢であり、このことが、特別なトレーニングをせずとも本書で学んだことをすぐ実践に移せる理由であろう。本書のコアメッセージは、アイデアを売り込むアプローチから抵抗に思いをめぐらすアプローチへの転換である。これは、友人との意見対立、夫婦喧嘩、子供の教育など、身近なことにもいろいろ応用できそうである。少しでも多くの人の役に立てば幸いである。
[書き手]
船木 謙一(ふなき・けんいち)
株式会社日立製作所イノベーション成長戦略本部コーポレートベンチャリング室室長。産業機械、情報機器、電子部品、日用品、アパレルなど複数業種で、業務プロセス刷新や新システム導入を伴う15の改革プロジェクトを経験。最近は研究や事業開発のオープンイノベーションとして、スタートアップとの協創を促進。改革とオープンイノベーションに共通する鍵は、人々が変化を受け入れるか否かであるという結論に至り、本書にたどり着く。経営工学分野で著述、講演、各種受賞、客員研究員、非常勤講師など。2019年より現職。博士(2001年、工学)。公益社団法人日本経営工学会副会長。