書評

『三十九階段』(東京創元社)

  • 2024/06/09
三十九階段 / ジョン・バカン
三十九階段
  • 著者:ジョン・バカン
  • 翻訳:小西 宏
  • 出版社:東京創元社
  • 装丁:単行本(192ページ)
  • 発売日:2024-01-29
  • ISBN-10:4488011357
  • ISBN-13:978-4488011352
内容紹介:
アフリカ帰りの鉱山技師リチャード・ハネーは、ロンドンの生活に退屈しきっていた。しかし、たまたま知り合った男が殺され、国際的スパイ組織の陰謀に巻き込まれてしまう。世界大戦の危機をは… もっと読む
アフリカ帰りの鉱山技師リチャード・ハネーは、ロンドンの生活に退屈しきっていた。しかし、たまたま知り合った男が殺され、国際的スパイ組織の陰謀に巻き込まれてしまう。世界大戦の危機をはらむ陰謀を阻止する手掛かりは、ただひとつ、「三十九階段」という言葉のみ。スパイ小説の原点ともいうべき、不朽の名作を、ミステリ好きでも知られる、あのエドワード・ゴーリーの10点のイラスト入りで贈る魅惑の一冊。

日常にこそ潜む「冒険の小さな鍵」

ヒッチコックが映画化したことでも知られるジョン・バカンの『三十九階段』は一九一五年に発表されているのだが、前年五月から六月半ばまでの、バルカン戦争後の情勢を背景に、第一次世界大戦が勃発する直前の空気を染みこませている。英国がドイツに宣戦布告するのは同年八月。虚構は形を変えて史実に接続され、ここに戦争小説の顔も浮かび上がらせている。

主人公リチャード・ハネーはスコットランド生まれの三十七歳。三ケ月前に炭鉱技師として働いていた南アフリカからロンドンにやってきて、アパートに仮住まいをしている。お金には困っていない。ただ人生に倦(う)んで「大英帝国でいちばん退屈している男」を自認し、「南アフリカの草原(ヴエルト)に帰る決心をしかけて」いた。

そんなとき、彼は命を狙われているという男を請われるまま匿い、国際的な策謀に関する情報を伝えられるのだが、その男が殺されたことから殺人の罪を着せられ、警察と組織の双方に追われる身となる。ロンドンからスコットランドへ、汽車、自転車、自動車、そして自分の足を総動員して緩急をつけた必死の逃亡に、敵は飛行機まで駆使して追ってくる。

逃走中のハネーのまえにはさまざまな人物があらわれ、思わぬ救いの手を差し伸べる。牛乳配達夫、宿屋の青年、道路工夫、羊飼い、自由党候補者の青年、その叔父にあたる政治家。逃亡者の目に映じるスコットランドの自然描写の美しさは、映画では味わえないものである。

開幕早々に示される情報は物語の展開にあまさず活用され、巧みに回収されていく。冒険、推理、サスペンス、どれを当てはめてもいい活劇の、偶然のつながりを寛大に許しつづける語りにどこか懐かしささえ感じられるのは、バカンに学んだ作家たちの小説を読んできたことによる心地よい錯覚なのだろう。小説のジャンルを考えるうえでの、ひとつの原器がここに提示されているのだ。

殺された男の手帳には、丸括弧つきの(三十九段)という謎めいた文言が繰り返されていた。バカンは一八七五年、スコットランドに生まれていて、計算上二歳年下になるハネーとほぼ同世代である。ハネーがボア戦争(一八九九年から一九〇二年まで)に情報部員として従軍し、暗号の解読もできたという設定は、バカン自身の来歴と重なる部分がある。そして両者とも、日常のなかにこそ小さな冒険の鍵が潜んでいることを心得ていた。

「冒険というものは、熱帯地方や革命党員でなければ遭遇できないものだと君は思いこんでいるんじゃないかい。現に今だって、冒険は君の目の前にぶらさがっているかもしれんよ」

ハネーは事件に巻き込まれたというより、無為の日々のなかで不意に現れた冒険の芽をすかさずつかみ取ったのだろう。恐怖や不安をはねのけて冒険に向かおうとする喜びが、この小説に階段ではなくダンスのステップを踏むような独特の軽やかさを与えているようだ。一九五九年の創元推理文庫版を底本とする訳文の、時おり顔を見せるやや古風な言いまわしがその軽みと流れを消さずに楔となって、原書から採られたエドワード・ゴーリーの絵の世界と不思議に調和している。
三十九階段 / ジョン・バカン
三十九階段
  • 著者:ジョン・バカン
  • 翻訳:小西 宏
  • 出版社:東京創元社
  • 装丁:単行本(192ページ)
  • 発売日:2024-01-29
  • ISBN-10:4488011357
  • ISBN-13:978-4488011352
内容紹介:
アフリカ帰りの鉱山技師リチャード・ハネーは、ロンドンの生活に退屈しきっていた。しかし、たまたま知り合った男が殺され、国際的スパイ組織の陰謀に巻き込まれてしまう。世界大戦の危機をは… もっと読む
アフリカ帰りの鉱山技師リチャード・ハネーは、ロンドンの生活に退屈しきっていた。しかし、たまたま知り合った男が殺され、国際的スパイ組織の陰謀に巻き込まれてしまう。世界大戦の危機をはらむ陰謀を阻止する手掛かりは、ただひとつ、「三十九階段」という言葉のみ。スパイ小説の原点ともいうべき、不朽の名作を、ミステリ好きでも知られる、あのエドワード・ゴーリーの10点のイラスト入りで贈る魅惑の一冊。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2024年2月10日

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