書評

『ナターシャの踊り:ロシア文化史』(白水社)

  • 2024/07/07
ナターシャの踊り:ロシア文化史 / オーランドー・ファイジズ
ナターシャの踊り:ロシア文化史
  • 著者:オーランドー・ファイジズ
  • 翻訳:鳥山 祐介,巽 由樹子, 中野 幸男
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(468ページ)
  • 発売日:2021-07-31
  • ISBN-10:4560098395
  • ISBN-13:978-4560098394
内容紹介:
ロシア文化を主人公とした一大叙事詩「ロシアは頭ではわからない」――「ロシア」をめぐるイメージ=神話の典型のひとつだ。本書では、そうした「ロシア」という「神話」が生み出してきた豊饒た… もっと読む
ロシア文化を主人公とした一大叙事詩

「ロシアは頭ではわからない」――「ロシア」をめぐるイメージ=神話の典型のひとつだ。本書では、そうした「ロシア」という「神話」が生み出してきた豊饒たるロシア文化の歴史が、国家や社会を主体とするマクロな歴史を縦糸、個人の生に関わるミクロな歴史を横糸として織りなされる。文学、音楽、美術、演劇、バレエといった大文字の文化のみならず、宮廷の様子や農村の習慣、食や入浴文化、フォークロアまで、ロシア史のさまざまな局面における日常生活を垣間見られるのも本書の魅力だ。
本書が射程に入れるのは、1703年のピョートル大帝による新都建設から、1962年のストラヴィンスキーの亡命先からの一時帰還という250年を超える時間であり、さらに亡命ロシア人社会にもその筆は及んでいるため、膨大な時空間にわたる「ロシア文化」を読者は旅することになる。「ロシア文化」において「ロシア」という「神話」がいかに大きな問題として底流にあったのか、また逆に「ロシア」という「神話」を支えるのにいかに「文化」が重要な役割を担ったのかを、本書で描かれる人物たちを追体験しながら感得することになるだろう。

[目次]
序章
第一章 ヨーロピアン・ロシア
1 帝都サンクトペテルブルクの誕生
2 シェレメーチェフ家の栄華
3 農奴劇場の歌姫プラスコーヴィヤ
4 ヨーロッパ的生活と演劇性
5 フランス崇拝とフランス語
6 ヨーロッパを旅するロシア人
7 「人間」から「ロシア人」へ
第二章 一八一二年の申し子たち
1 対ナポレオン戦争と国民統合の夢
2 デカブリストの蜂起と流刑
3 シベリアの「農民公爵」
4 文学、芸術における「ロシア性=民衆性」の発見
5 子ども時代、ばあやの思い出
6 ロシアの歴史をめぐって
7 セルゲイ・ヴォルコンスキーの晩年
第三章 モスクワへ!モスクワへ!
1 「大きな村」
2 ロシア文学のなかのペテルブルク神話
3 美食と歓待の町
4 《展覧会の絵》とモスクワ様式
5 歴史絵巻の舞台
6 商人に育まれたモスクワ文化
7 鉄道王マーモントフとアブラムツェヴォの芸術村
8 チェーホフのモスクワ
9 ソヴィエトの帝都として
第四章農民の婚礼
1 「民衆のなかへ!」
2 スターソフと三人の芸術家
3 トルストイと農民
4 キティとリョーヴィンの結婚
5 農村をめぐる理想と現実
6 バレエ・リュスと「ロシア性」の輸出
7 ストラヴィンスキーの《結婚【レ・ノース】》
上巻図版一覧
読書案内
年表
用語集
原註

千ページ 近代ロシアの一大文化絵巻

二世紀半にわたる、近代ロシアの文化の歴史を魅力的に語った本である。厳密に時系列にそって重要な項目を網羅して記述した編年体の歴史ではなく、テーマ別にロシアの国民的アイデンティティーと文化をめぐる興味深い事実と挿話を組み合わせながら、様々な文学作品からの引用をふんだんに盛り込んで織りなした一大文化絵巻という印象を受ける。上下合わせて千ページ近い大著であるだけに、細部では不正確なところも散見されるが、これだけの大著を心躍らされる読み物として書き切った著者の構想力と才気には並外れたものがある。著者はイギリスを代表するロシア史研究者で、一般向けの啓蒙書を次々に書き、マスコミでもロシア史・文化全般の解説者として活躍する「スター学者」だ。

表題の「ナターシャの踊り」とは何だろうか。序章で詳しく紹介されているのだが、トルストイの名作『戦争と平和』の一場面である。伯爵令嬢のナターシャは、変人の「おじさん」の住む質素な丸太小屋を訪ねたとき、その場の雰囲気に突き動かされるように、いきなり民衆的な踊りを見事に披露し、居合わせた人たちを感動させる。貴族のお嬢さまが知っている踊りといえば、上流階級の舞踏会で踊られるフランス式の社交ダンスだけのはずだ。とすると、ナターシャは本能的に、「生まれながらの感性」によってロシアの民衆文化を体得していたのだろうか。

トルストイは現実をありのままに描くリアリズム作家だとされる。しかし、さすがにこのようなことは現実にはあり得ないだろう。ではこれは何なのか。ファイジズは「上流層のヨーロッパ文化と農民のロシア文化という二つのまったく異なる世界の出会い」が芸術的に表現されたものととらえ、そこに農民との国民的連帯を目指すリベラルな貴族たちの願望を読み取る。かくして「ナターシャの踊り」を一つの取っ掛かりとして、本書では貴族文化(ヨーロッパ的)と農民文化(ロシア的)という乖離(かいり)していた二つの世界の複雑な相互作用が、ロシア人の国民意識や芸術作品にどのように作用したかが追求されることになる。

冒頭は一七〇三年春、皇帝ピョートル(大帝)がネヴァ川河口の湿地で「ここに町あれ」と宣言した神話的な場面に始まる。その結果、史上稀にみる過酷な労働者の大量徴用により、「おとぎ話に出てくる魔法の町」のように新たな帝都サンクトペテルブルクが急速に建設され、皇帝主導の下、強力にロシアの近代化・ヨーロッパ化が進められた。分厚い本の中心部分をひとまずおいて、(限られたこの紙面でやむを得ない。乞う御寛恕)、亡命者たちの「在外ロシア」を扱った最後の章に行くと、半世紀にも及ぶ亡命生活の後、一九六二年に作曲家ストラヴィンスキーがソ連を初めて一時訪問したところで、この長い物語は閉じられる。

彼は祖国を捨て、コスモポリタンとして西欧・アメリカで暮らしていたはずなのだが(ミラン・クンデラによれば彼は「唯一の祖国を音楽のなかに見いだした」のだった)、ソ連では突然、祖国ロシアに対する変わらない愛を表明するのである。そして、それまで体制との軋轢に苦しみながらもソ連で生き続けたショスタコーヴィチとの感動的な出会いが最後にくる。それは二つのロシアの「再結合でも和解でもなかった」が、最後には文化が政治に打ち勝つ一体性を持つことを鮮やかに示すものであり、二人の音楽は「同じロシアの鼓動を響かせていた」とファイジズは締めくくる。なんとも憎い構成ではないか。

本書はこれらの印象的な冒頭と結末の間で、西欧的なサンクトペテルブルクと土着的なモスクワ、ロシアのエリートによる農民社会・文化への接近、ロシアの宗教心(「ロシア魂」の問題)、ロシア文化にとってのアジアといった話題を章別に取り上げる。そして多くの史料に依拠しながら、個別の人物の鮮やかな生き方についてまるで小説のような描写を織り込んで論じていく。

デカブリストの蜂起に参加した結果、シベリア送りになって苦難の人生を送った大貴族ヴォルコンスキー公爵と彼に付き添った妻の物語も、ドストエフスキーやトルストイの神を求めた人生の軌跡も出てくるし、貴族の豪華な食卓も活写され、「ばあや」(乳母)の尊さも力説される。ソ連時代を論じた章ではSF小説やタルコフスキーの映画まで取り上げられる。亡命後、アメリカを新たな故郷と見なし、英語で執筆するようになった作家ナボコフの肖像も描かれる。

よくこれだけ広い範囲をカバーしたものと感嘆すると同時に、結局のところ文学や芸術の専門家ではないファイジズの論じ方には物足りなさを覚える箇所もあったことは率直に言っておこう。しかし、次から次へと繰り出される「ロシア魂」の乗り物としての芸術や文学の長い長い物語を追いながら、私は途方もなく幸せな気分になった。このような本の翻訳は簡単ではないが、原著の誤りまで丁寧に調べて修正し、正確で読み易い訳稿を仕上げた若手研究者たちの労を多としたい。

【下巻】
ナターシャの踊り:ロシア文化史 / オーランドー・ファイジズ
ナターシャの踊り:ロシア文化史
  • 著者:オーランドー・ファイジズ
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(508ページ)
  • 発売日:2021-07-31
  • ISBN-10:4560098549
  • ISBN-13:978-4560098547

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ナターシャの踊り:ロシア文化史 / オーランドー・ファイジズ
ナターシャの踊り:ロシア文化史
  • 著者:オーランドー・ファイジズ
  • 翻訳:鳥山 祐介,巽 由樹子, 中野 幸男
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(468ページ)
  • 発売日:2021-07-31
  • ISBN-10:4560098395
  • ISBN-13:978-4560098394
内容紹介:
ロシア文化を主人公とした一大叙事詩「ロシアは頭ではわからない」――「ロシア」をめぐるイメージ=神話の典型のひとつだ。本書では、そうした「ロシア」という「神話」が生み出してきた豊饒た… もっと読む
ロシア文化を主人公とした一大叙事詩

「ロシアは頭ではわからない」――「ロシア」をめぐるイメージ=神話の典型のひとつだ。本書では、そうした「ロシア」という「神話」が生み出してきた豊饒たるロシア文化の歴史が、国家や社会を主体とするマクロな歴史を縦糸、個人の生に関わるミクロな歴史を横糸として織りなされる。文学、音楽、美術、演劇、バレエといった大文字の文化のみならず、宮廷の様子や農村の習慣、食や入浴文化、フォークロアまで、ロシア史のさまざまな局面における日常生活を垣間見られるのも本書の魅力だ。
本書が射程に入れるのは、1703年のピョートル大帝による新都建設から、1962年のストラヴィンスキーの亡命先からの一時帰還という250年を超える時間であり、さらに亡命ロシア人社会にもその筆は及んでいるため、膨大な時空間にわたる「ロシア文化」を読者は旅することになる。「ロシア文化」において「ロシア」という「神話」がいかに大きな問題として底流にあったのか、また逆に「ロシア」という「神話」を支えるのにいかに「文化」が重要な役割を担ったのかを、本書で描かれる人物たちを追体験しながら感得することになるだろう。

[目次]
序章
第一章 ヨーロピアン・ロシア
1 帝都サンクトペテルブルクの誕生
2 シェレメーチェフ家の栄華
3 農奴劇場の歌姫プラスコーヴィヤ
4 ヨーロッパ的生活と演劇性
5 フランス崇拝とフランス語
6 ヨーロッパを旅するロシア人
7 「人間」から「ロシア人」へ
第二章 一八一二年の申し子たち
1 対ナポレオン戦争と国民統合の夢
2 デカブリストの蜂起と流刑
3 シベリアの「農民公爵」
4 文学、芸術における「ロシア性=民衆性」の発見
5 子ども時代、ばあやの思い出
6 ロシアの歴史をめぐって
7 セルゲイ・ヴォルコンスキーの晩年
第三章 モスクワへ!モスクワへ!
1 「大きな村」
2 ロシア文学のなかのペテルブルク神話
3 美食と歓待の町
4 《展覧会の絵》とモスクワ様式
5 歴史絵巻の舞台
6 商人に育まれたモスクワ文化
7 鉄道王マーモントフとアブラムツェヴォの芸術村
8 チェーホフのモスクワ
9 ソヴィエトの帝都として
第四章農民の婚礼
1 「民衆のなかへ!」
2 スターソフと三人の芸術家
3 トルストイと農民
4 キティとリョーヴィンの結婚
5 農村をめぐる理想と現実
6 バレエ・リュスと「ロシア性」の輸出
7 ストラヴィンスキーの《結婚【レ・ノース】》
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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2021年9月4日

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