表現とは症状であり人生なのだ、と
「センス」という言葉はどうも苦手だ、とセンスがあまりよろしくない評者は考える。そこには精神科医として仕方のない事情もある。センスとは直感的な選別の才であり、それは膨大な「センスの悪い=ダサい」ものの排除の上に成立している。その意味でセンスとは、しばしば差別と区別しにくいものになる。医師が「センスの良い患者」だけを選別しはじめたら大問題だ。本書は著者による入門書的著作の三冊目であると言う。一冊目にあたる『勉強の哲学』では、以下のフレーズに感心した。「ノリの悪い友と、キモい友と、語りたくなる(中略)来たるべきバカ同士の、互いの奥底の無意味を響かせ合うような勉強の語り合いへ」。勉強をこのように解体できる著者は、信頼できる。そのように考えて本書を手に取った。期待は裏切られなかった。
著者がいうセンスとは、評者が懸念したような排除と選別の才能のことではない。それは芸術の鑑賞眼であり、もっと広く「ものの見方」全般に及んでいる。簡単に言ってしまえば、それは意味や目的から離れて、対象を「リズム」として捉えることだ。ただしリズムとは、形や色、響き、味、感触などの総称である。だからラウシェンバーグの前衛絵画を眺める体験は、おいしい餃子(ギョーザ)を味わう体験と等価なのだ、と著者は言う。
リズムとは凸(でこ)と凹(ぼこ)である。それは存在と不在を繰り返す「ビート」や、複雑な要素が絡み合う「うねり」をもたらす。つまりセンスとは、意味すらもリズムとして捉え、うねりとビートを感じとることなのだ。
ここまでの議論は、批評家ウォルター・ペイターが著書『ルネサンス』で述べた「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」という言葉を連想させる。イメージ(絵画)や意味(文学)にとらわれない高い抽象度において情動に訴えるのが音楽である。著者はこれをひっくり返して、あらゆる表現を音楽として味わうことを推奨するかのようだ。
しかしもちろん、著者の主張はここに留まらない。その先があるのだ。
キーワードは「享楽」と「反復」である。いずれも精神分析由来の言葉だ。「享楽」とは、不快かつ快であるような刺激を求めてしまうような「死の欲動」にもとづく方向性。すぐれた芸術には、多かれ少なかれこの要素があると著者は言う。次いで重要なのは「反復」だ。なぜなら表現者は「問題」を抱えており、問題は反復として表現されるからだ。さらに著者は続ける。「作品」とは問題の変形であり、個性とは問題を反復してしまうことだ、と。その反復は必然でありながらも、根底に偶然性が響いている。そうか、と評者はさらに連想する。つまり表現とは「症状」であり「人生」なのだ。だとすれば、確かにセンスは排他性や差別性とは無関係といえる。安心だ。
本書には親切な「付録」がついている。センスを活性化するためのワークなのだという。しかし、ただセンスの良さを目指す手前で、著者の言葉をもう一度嚙みしめておこう。「センスは、アンチセンスという陰影を帯びてこそ、真にセンスとなるのではないか」。まただからこそ、アンチセンスの典型のような独り暮らしの部屋は「ラウシェンバーグの画面に似ている」のだ。