人工知能は物事が結び合う神秘を再現することである
まえがきはあまり堅く書きたくないので、自己紹介代わりに、私がなぜ本書に収められたようなテーマに興味を持つに至ったか、私がどのような人物なのかについて書こうと思う。それは本論へ至るスロープになるはずである。私は子供の頃、天文学者になろうと思っていた。夜な夜な星を見上げるのが好きだった。だが、それだけではなかった。星々の夜空の眼下に広がる夜景もまた好きであった。天の法則と人の世を同時に見るのが好きだった。中学生の頃の私は真理を求めていた。教科書には満足できなかった。本当のこと、それさえつかめば、知識を、人生を、未来をつかめると思っていた。もちろん、このこと自体が思い込みであるが、その道は深く険しかった。私は学生鞄の底に、数冊の文学書と哲学書を入れて、ありとあらゆる隙を見つけては読んだ。次第に目も悪くなり、星も夜景もよく見えなくなった。また、頭は入れたばかりの概念で倒錯し、世界というものが薄ぼんやりとした膜の向こうに遠のいた気がした。フランツ・カフカの小説に「こま」という短編がある。「こま」をつかめば、世界のすべてを捉えることができると妄信した男が回転する「こま」をつかむと、今度は世界がぐるぐると回り出す、という物語だ。私もまた、「こま」=真理をつかもうとした。こまと世界の間でいろんなものを見失い、数学、物理学、工学、哲学、そして思想の間をぐるぐるとさまようこととなった。本書の各章がさまざまな学問がクロスしているのは、そのせいである。
私は諸分野の結び目を見出し、一つの学問に収まりきらない複合的かつ中心的な物事をつかもうとしてきた。私の心の中心的課題は、世界とは何か、知能とは何か、である。そして、この二つの問いはどちらから始めても、もう一つの問いにたどりつく。我々は決して一般的な存在ではない。真理とは人間が世界を知ること。世界とは人間が捉えた世界。人間が捉える世界は、人間とは何かを教える。人間は世界の中に存在し、世界とは何かを知ることなしに人間とは何かを知ることはできない。自然の法則に満ちた宇宙の下に、人間の街がある。街はさまざまな光ること。それが私の望みである。そのためには、その土台となる哲学も新しくならねばならない。
人工知能を研究することはすべてを研究することと等しい。多くの学問は人と世界を細分化する博物学的欲求の中で成立したが、人工知能は、それら細分化した学問を再び統合し、一つの知能を作り出そうとする試みである。通常の学問が世界を切り分けることであるとすれば、人工知能は物事が結び合う神秘を再現することである。人工知能は発見した知識をすべて他の学問に譲ってしまう。自分自身はいつも空っぽのテーブルにして、その時々の最先端の知見を組み合わせて知能を作らんとする。人という宇宙がそれを囲む宇宙と響きあって存在しているように、人工知能を研究することは、そのすべての響き合いを探求し組み立てていくことである。これは華厳哲学の教えでもある。だから人工知能は構成的学問と呼ばれる。つまりこれは作り上げる実験を続けることで、その結合の原理の実現の術に長けようとする分野なのである。
通常、人工知能を設計するときは、知能の内部に目を向けて設計する。本書でもくり返し、人工知能のアーキテクチャ(設計図)が探求される。それはルールベースやディープラーニングといったアルゴリズムではなく、世界の中で主体的かつ主観的に生きる知能を駆動させることだ。車の設計でも、電子レンジの設計でもそうだろう。しかし、知能は世界と響きあい、内側と外側が結び合って知能となる。世界から孤立した知能は機能であって知性ではない。世界との結びつきと、結ばれつつ独立したシステムであるという矛盾の中に知能の深みがある。これは物理学では散逸構造と呼ばれる。知能は巨大な天体望遠鏡のように、外から内部を除けば世界が映っていて、内から外を見上げれば宇宙が見える。人間は世界を取り込み、世界に参加することで成り立っている。
物理学の探求は宇宙の時空構造(時間と空間)を解き明かすことである。その鏡面のように人工知能は、知能にとっての時間と空間を作り出すことである。人間は主観的な時間と空間を持つ。これを人工知能においても再現することが一つの指針である。人工知能にとっての時間とはCPUのクロックのことではない。人工知能が世界を体験しそこにそれにとっての時間が流れ始めるとき、人工知能はその最初の一歩を獲得したことになるだろう。そしていつか宇宙への探求と、知能への探求は重なり合う。学問は宇宙を人工知能が理解するという形式へと変化するだろう。それは少し先のことだ。
そして人が持つ時間とは物語でもある。人は自分の物語を作らずにはいられない。自分の人生の物語をどう組み立てられるかは、半分は世界が与え、しかし半分は人間の裁量に任されている。今日は雨が降っている。楽しいと思うか、悲しいと思うか、それは自分の組み立て次第である。人間の時間、それは物語である。では他の生物はどうだろうか。仏教ではその物語は虚であるという。それゆえに人間は苦しむ。しかし、否定はしない。仏教の禅は、その物語をいったんやめることを教える。物語の外に出て、再び物語の中へ入っていかざるを得ない人間に休息の時を与える。物語もまた知能と深く結びつくものであり、だからこそ物語の探求は人間の本質へ通じている。
そうやって、気が付けば四半世紀も、私は人工知能について研究を続けてきた。人工知能を探求することは人間を探求することであり、世界を探求することでもあった。また、人間を探求すること、世界を探求することは何でも人工知能を探求することだ。人間、と書いたが、生物と言った方が正しい。あらゆる生物に共通する知能の原理があり、私はそれを探求している。ミジンコでも、たぬきでも、リスでもゾウでも、段階はあれども、世界に主体的に参加して活動している。自己を完結しつつ世界と結び合っている。その原理を技術として確立すること。それが人工知能である。人間と同じように、生物のように感じ、考え、行動する人工知能である。
しかし、次なる展開がある。知能を持つものはAIエージェント(個としての人工知能)だけではない。環境もまた知能を持つのである。環境側に知能を持たせることを「スマート化」という。スマートオブジェクトとは物が知能を持つことで、環境内でAIエージェントや人間を誘導してあげること。スマートスペースとは空間が知能を持つこと。会議室や、広場や、ピロティなど、空間を管理するAIである。スマートシティとは都市が知能を持つことである。スマート化される最も大きなスケールが都市である。これらはより一般的には「空間AI」と呼ばれる。今後最も重要になる概念の一つである。ロボットやドローンのように個として運動するAIが動物型AIと言うのであれば、空間AIは空間を基盤とする動かない植物型AIである。そして、個々のAIエージェントたちと、空間AIが協調することで、AIたちはより人間に近い空間での活動が容易になる。空間AIが空間的情報を提供することで、個としてのAIエージェントたちの空間認知のレベルを下げることができるからである。ちょうど適度に植物に満ちた空間が人間にとって行動しやすいように、空間AIがAIにとって「心地よい」空間を準備する。つまり、これは人工的なAIにとっての環世界の実現でもある。
空間AIもスマートシティも技術的発展の途上で見出したテーマではあるが、ただ、やはり、私は都市というものが、とても好きなのである。遠くに横たわる都市、というものが好きでたまらない。夜、遠くに街を見おろして、海辺の点滅するネオンを見るとき、私はまるで都市が一つの人工生命のように愛おしく感じる。都市を歩くのも好きだ。夕日が差し込む街、仕事を終えて帰路につく人の気配に満ちた夜の街、真夜中に光輝く海辺の街。長い間、都市が見せるさまざまな顔が、私の一番の友人であった。都市は基本、人が無作為に作り上げた。しかし、どの都市に行っても、夕暮れの都市、夜の都市の全景に感動する。私は都市というものに漠然とした期待を抱き続けた。それは私らしく、何ら具体性のある憧れではなかったが、遠く未来へと通じる、淡い憧れであった。それはきっと、近未来で実現する都市への羨望でもあったのだろう。その都市の姿とは、都市自体が人工知能を持つという未来である。人の安全を守り、治安を維持し、常にあらゆる場所に視線を注ぎ続け、ロボットやドローン、デジタルサイネージ上のデジタルキャラクターの盟主として都市を守り続ける都市型人工知能である。また、現実の都市以外にも、私はアニメの中の都市が好きだ。『銀河鉄道999』(松本零士、東映アニメーション)に出てくるような未来都市、『超音戦士ボーグマン』(TOHO CO., LTD/ASHI PRODUCTIONS CO., LTD)に出てくるような近未来都市、そしてシド・ミードが描くような近未来都市が、なぜかとても懐かしい。都市の未来というものに無限の可能性を感じる。
都市は人間にとって都合の良い環世界である。都市は人間が行動しやすい環境であると同時に、主観的に認知・行動しやすい世界となっている。たくさんの標識、まっすぐな通路、ベンチのある広場などである。ジャングルより都市の方が人間がリラックスして行動できる。しかし、これから都市はロボットやドローンなど人工知能にとっても環世界でなければならない。人工知能にとっても都市はそのような主観空間を形成しやすい場所となるべきである。私はいつも今(二〇二四年)の時代が息苦しいと思う。おそらく人工知能にとってもそうだろう。未来にはきっと自分が深呼吸できる場所があるはずだ。ここで描かれるのは、近未来では当たり前の、そして、現在からそこへ続く道である。
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本書はこの二〇一五年から二〇二四年まで、さまざまな媒体に発表してきた論文や論考の中でも特に重要な一二個の文章を集めたものである。それぞれの文章は人工知能、スマートシティ、物語、哲学、あるいは、それらを混合した内容まで多岐に渡っている。とはいえ、一部、論文調の堅苦しい表現を柔らかな文章に直しているので、気軽なエッセイ集としても読んで頂ければ幸いである。
私はこれらの一連の文章によって、来るべき近未来への森を描こうと思う。私はなぜか近未来というものにとても惹かれる。私の研究や考察の多くは、その近未来へたどり着こうとする衝動から来ている。私の想う近未来とは、清潔で、整然とした都市、誰もやりがいを持って生きている都市、サービスが行き届いて便利な都市、それでいて郊外に大きな自然がありそこにどっぷりと浸かれる場所、それでいて安全な場所である。しかし、現在からそこへたどり着くまでは決して容易ではない。私は現在と近未来の間にある森をさまよっている。だから、この森に関しては誰よりもうまく描けるのではないか、と思っている。そこまであなたを誘うことができれば幸いである。
[書き手]
三宅陽一郎(ゲームAI開発者)