夫急死で始まる奮闘の日々、時代の表裏
今年は力道山の生誕100年(推定)。敗戦により日本の人心が荒廃していた昭和20年代、折から始まったテレビ放送においてアメリカ人レスラーを空手チョップでなぎ倒し、爆発的な人気を博した。しかし本書が伝えるその人柄は、世に流布するイメージとはかなり異なる。「一緒に東京の夜を変えよう」、そう力道山は熱弁した。赤坂を日本のラスベガスに、とも。視線の先には南北朝鮮と日本の同時国交正常化もとらえていた。力道山は実業家であり、政治家でもあった。
ところが1963年末、赤坂のクラブで腹をやくざに刺され、1週間後に急逝する。過信ゆえの不養生が噂されたが、30年ほど後、妻に電話があった。手術の現場に居合わせたという人物が「あれは医療ミスです」と語ったという。現在では常用されている麻酔の使い方をその場ではできなかったのだ、と。
医師も含め、誰も死ぬとは予想しなかったのだ。半年前に結婚したばかりの新妻は22歳で未亡人となった。力道山が夢の実現へ向けいかなる構想を持ち合わせていたのか知るよしもない。本書は力道山未亡人による、夢の後始末の物語である。
けれども妻だった田中敬子さん自身の言葉と、戦後芸能史、裏政治史、格闘技界に通じる著者の筆の運びとでは、印象が相当に異なる。
まず力道山のビジネスモデルが示される。死亡時に力道山は5社の社長だった。リキアパートやリキマンションを所有する土地売買の「リキエンタープライズ」、「日本プロレス」、レストランやボウリング場、トルコ風呂(サウナ)を経営する「リキスポーツ」、エディ・タウンゼントをトレーナーとして招聘(しょうへい)し藤猛を育てた「リキボクシングクラブ」、そして相模湖に52万坪のゴルフ場などを建設しようとした「リキ観光開発」である。
方向としては2000年代以降に普及した「大型複合施設」だから、40年も時代に先駆けている。資産価値は全体で30億円(現在の100億円相当)、しかし黒字はプロレスに偏り、相模湖畔の開発には17億円の負債があった。力道山の名前で運転資金を借り、5社を回した。プロレスの利益と力道山個人とが原動力となるビジネスモデルだったのだ。
3年後には引退を見据えていた。興行の柱に据える計画で、弟子の馬場には海外遠征を命じていた。猪木は大相撲に送り込み出世させてからプロレスに呼び戻すプランもあった。盤石な準備である。
力道山の念頭にビジネスでの生き残りがあったとすれば、9年を遡る1954年に決行された柔道王・木村政彦との「日本一決定戦」の謎も解ける。木村が「真剣勝負なら負けない」と新聞紙面で語ったことを受け実現した試合だったが、力道山は殺してしまいかねないほどの怒気を込め、木村を滅多打ちにしてKOした。「引き分けの約束があった」云々という木村側の証言をいくら聞いても、力道山が何故あれほど怒りを爆発させたのか理解できない。柔道の実力が抜群であれ、ビジネスでは場つなぎの戦力でしかない木村が、将来にわたりカネを生み出すことになるプロレスの仕組みを暴露したのだ。形をなしつつあったビジネスを護る情念が逬り出たのだろう。
ところが力道山のビジネスモデルは、その死で中断が現実に迫った。それを理解していた幹部レスラーたちは、金の卵を産む「日本プロレス」の切り離しを図った。相続税を払うと負債が8億円になる残り4社を、敬子さんに押しつけた。そこからの敬子さんの奮闘が本書の柱である。
魅力的なのが、理不尽な運命に翻弄されたはずの敬子さんの鷹揚な人柄だ。初婚とはいえ力道山は三人の子持ち。結婚を急いだのには銀行が独身者との融資を渋ったという背景があり、敬子さんが受諾すると涙を見せた。さらに婚約直後に力道山が朝鮮半島出身者であることを告白すると、敬子さんは驚く素振りもなく「あ、そうだったんですか」と返した。拍子抜けした力道山は、ここでも大粒の涙を流した。
戦後政治の暗部を描かせれば、著者の筆は躍動する。自民党では派閥の領袖も務めた大野伴睦(ばんぼく)は、日本プロレスのコミッショナーとして、プロレス新聞の東京スポーツのオーナーであった右翼の児玉誉士夫とともに博徒を団結させた。日本プロレスはやくざが興行の半分以上を請け負い資金源とし、親米反共の砦となって、役員には山口組の田岡一雄、東声会の町井久之が名を連ねた。
そうした政界とやくざの癒着を断ち切ったのが、大野の急死後にコミッショナーを引き継いだ自民党副総裁の川島正次郎だった。警察とともにプロレス界の浄化を図り、やくざの興行には体育館を貸さないという行政指導を講じた。1965年に開催された豊登対デストロイヤー戦の会場である東京体育館の外では、暴力団と警察が対峙し、発砲もありえた緊迫状況だったという。
破天荒なビジネスや政治活動は力道山が先駆者だった。その遺伝子を受け継いだのが猪木だった。人と時代を裏表から描く傑作ノンフィクションである。