書評
『艶笑滑稽譚』(岩波書店)
大文豪の奇書に挑んだ名訳
自ら恃(たの)むところのある作家というものは、どういうわけか決まって二つのことに挑戦したがるものらしい。ポルノと擬古文である。日本だと芥川龍之介や永井荷風の例があるが、これらの合体たる「擬古文ポルノ」という究極の難題に挑戦しようとしたのが、かの大文豪バルザックである。バルザックは九十の長・短編からなる「人間喜劇」を書いたが、じつは並行して百編の艶笑(えんしょう)コントを構想し、三十編を書きあげていた。これは郷里トゥーレーヌの大先輩フランソワ・ラブレーを模した擬古文で、ルネッサンス期の大らかなセックス、大食い、スカトロジーなどの風俗、つまりラブレー的なテーマを扱おうとするダイレクトな「もう一つの人間喜劇」にほかならなかった。この奇書の存在は日本でもつとに知られ、神西清(『おどけ草紙』)、小西茂也(『風流滑稽譚(こっけいたん)』)などの名訳者が擬古文の訳文で工夫を凝らした。神西清はラブレーとバルザックの間に三百年の開きがあることに注目し、三五〇年前の「きりしたん物」の文体で翻訳し、吉田健一から鴎外の『即興詩人』に匹敵する翻訳と激賞された。
いっぽう、この神西訳に違和感を覚え、『艶笑滑稽譚』と題した新訳に挑んだのが石井晴一である。『艶笑滑稽譚』は現代文の骨格にラブレーやベロアルド・ド・ヴェルヴィルなどの語彙(ごい)や言い回しをはめ込んだものであり「全体としては極めて現代文に近い」。また「フランスの十六世紀といえば、近代フランス語が確立されようとしていた時代であり、その頃の言語は、まさに日本の明治期の言語の様相と重ね合わせることができ」るがゆえに、三百年隔たっているという理由で神西が「きりしたん物」の文体を採用したのは「彼我の言語の歴史を無視した、一種の時代錯誤(アナクロニスム)」であり、準拠すべきは「日本の近代語が成立しつつあった明治期」の漢字にルビの文体なのではないか?
しからば、石井晴一はどのような擬古文の案出で新訳に臨んだのか? 名編《Le Frère d'armes》で比較してみよう。これは「飛車角と吉良常」に似たストーリーで、醜男が戦地に赴くにあたり、美人妻の貞操の防御を刎頸(ふんけい)の友ラヴァリエールに託するが、この友が美男ゆえ任務は重大な危機にさらされるというものである。切羽詰まったラヴァリエールは梅毒罹患を理由に危機を乗り切るが、恨んだ妻によって事実を宮廷で暴露され、窮地に陥るものの、その孤立が逆に二人の愛を深め、愛撫による交情に至る。以下はその場面。
(神西清訳の「刎頸の友」)さんぬるほど、『ふらんそわ』一世御登遐(とうか)ののちは、上臈(じょうろう)達のかの病を忌み恐れたことも一方ではない。さればとて思うた人に立別れうも不本意ぢやとあつて工(たく)み出(いだ)いたが、すなはちこの悪魔めいた掻撫の恋の遊びぢやと申し伝へたが、さすがの『らわりえる』もこの道ばかりは無下に拒(しりぞ)けう手立てもござない。
(石井晴一訳の「劒(つるぎ)に誓いし友」)そして此の鵞鳥(がちょう)の足掻(あが)きなる手段(てだて)は、フランソワ一世陛下のご崩御以来、彼の病に取り附かれるのを怖れ乍(なが)らも、尚愛する者に己の実を示さんとする心算(こころづもり)から、奥方たちの手に依(よ)って編み出されたもので、恋人たる役割をあくまで良く果さんとするラヴァリエール殿にとっては、唯(ただ)指先のみに依る此の苦しき悦楽に、身を任せざることは如何(いか)にしても不可能だったのである。
現代の読者に理解可能なリズムある擬古文という超難関に挑んだ訳者の勇気に拍手を。一編一編、独特の味わいを舌で転がしながら熟読するに値いする名訳である。(石井晴一・訳)
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