書評

『魯迅・文学・歴史』(汲古書院)

  • 2017/08/27
魯迅・文学・歴史 / 丸山 昇
魯迅・文学・歴史
  • 著者:丸山 昇
  • 出版社:汲古書院
  • 装丁:単行本(597ページ)
  • 発売日:2004-10-00
  • ISBN-10:4762927295
  • ISBN-13:978-4762927294
内容紹介:
魯迅についての様々な文章、建国後における知識人をめぐる問題、中国現代文学研究や師を想うなどの回顧と感想を論述。著者の、今まで単行本に入っていなかった文章を一冊にまとめる。
六百ページに近い大著だが、不思議にすらすらと読めてしまった。私が生きてきた時代と関係し、「身近な」話題が多いのも理由の一つであろう。だが、それだけではない。どの論文も刺激的であった。すでに読んだことのあるものも、再読してみると、懐かしさとともに新たな発見があった。とくに「魯迅と『宣言一つ』」は私にとって特別に記憶に残る論文である。二十年前にはじめて読んだときの情景はいまでも覚えている。これこそ比較文学の手本だと思い、一人で昂奮していたことが昨日のように思い出される。いますっかり黄色くなったコピーを取り出して見ると、感慨もひとしおだ。

一九八〇年代の中国では比較文学がちょっとしたブームであった。私も具体的な問題意識よりは、この専門分野の「新しさ」に惹かれていた。日本に来て、その面白さを実感しながらも、一部の論考を読んで、ある種の疑問を感じるようになった。専門性の限界を知り、あるいはG・C・スピヴァクが提起した、伝統的な学問のあり方からの脱却という問題を漠然と持つこともむろんあった(上村忠男ほか訳『ある学問の死』みすず書房)。だが、その場合、私の疑問はもっと素朴なものである。

比較文学において、作品や作家のあいだのつながりを見つける作業は、確かに謎を解くようなスリルがあって興味が尽きない。一方、形式に惑溺するあまり、文化の権力構造を無条件に受け容れ、ひいては無自覚に固定化してしまうことも否めない。ときには、スノビズムに陥ることもあった。そんなときに著者の論考を読んで、ある種の新鮮さを感じた。誤解を招く表現かもしれないが、私にとって、それは「異種格闘技」に出会うようなものであった。その「異質性」はおそらく氏の周囲では必ずしも意識されていなかったのかもしれない。それだけに、かえって「覚醒」のような効果があった。

欧米文学の受容研究を出発点としたことと関係するが、日本における比較文学は文化序列の意識が根強くある。西欧文学を影響源とする作品が多くあったため、両者の関係は無意識のうちに上下関係に見立てられている。むろん、西欧の近代文学を文化の川上とし、近代日本をその川下とする考えは、近代における文化の流動を捉えた一面は確かにある。一方、そのような認識は方法論モデルとして一般化され、あるいは東アジアの内部に当てはめようとするとき、ある種の歪みが生じるのは否めない。

「魯迅と『宣言一つ』」ではまったく違った比較文学の可能性を示した。それは単に「上位文化」と「下位文化」のメタファーに単純化されない、より複雑な関係性に対する注目である。そのような関係性については、作家の内面を凝視する緻密な検証が必要だ。文学的想像力の往還は、単なる文化の違いによるものだと矮小化してはならない。むしろ文芸思想が形成する文脈との関連性、ならびに作家の内面性の形成において検討されるべきだ。そのようなメッセージが込められているような気がした。理論の枠組みとして論じられるのではなく、具体的な論証の中で示唆されているだけに、かえって迫力のあるものとなった。その意味では著者の研究は、異なる文化を跨る事象について考えるときの、重要な方法論を示唆したのみならず、文化本質論の批判にも有力な根拠を示すことになった。

むろん比較文学の問題として、著者が意識的に仕掛けたのではないであろう。そもそもこの論考は魯迅の思想を解明するためのものであって、比較文学に対する、方法論的な挑発を意図したものではない。しかし、表面的な「比較」を警戒するには、十分刺激的であった。それがたとえばカルチュラル・スタディーズの言説の刺激を受け、比較文学の内部でようやく自覚されるようになったのは、八〇年代も後半以降のことである。その意味では本書の第Ⅲ部の「日本における中国現代文学」や「日本の中国研究」も、わたしにとって単なる研究史の意味を超えて、文化の自己と他者の問題を扱うときの、あり得べき姿勢を示唆した論文である。

著者は魯迅研究を出発点とし、中国近代文学がなぜ独特の道程をたどってきたか、それにはどのような背景があるかをめぐって思索を重ねてきた。その延長で、文学と思想史との関係も視野に入れ、さらに関連する人物の研究を通して、歴史批判の問題をも射程に入れた。蕭乾をはじめ近代知識人についての考察は、魯迅研究にとって単に思索の補助線という意味に止まらず、歴史的過去を振り返るとき、中国現代文学をより多面的に捉えることにも役立つものだ。

ここ三十年来、著者の関心は三〇年代文学の評価にも向けられている。周知のように、現代中国では猛烈な政治的季節風のため、一九三〇年に結成した「左翼作家連盟」の運動や関連人物に対する評価は振り子のように周期的に変わっていた。そうした評価は政治的な解釈を飽和させることがあっても、思想史の地平で真剣に検討されることは少ない。

そうした状況に対する批判の意味もあったろう。著者は魯迅との関連を中心に、二〇年代文学について一連の検証を行った。取り上げられた問題はそれぞれに違うものの、どの論考にも共通した点が一つある。すなわち、人間の内面に向ける眼差しである。「問題としての一九三〇年代」は一九七五年に執筆されたにもかかわらず、今日読んでもあっと驚かせるものがある。とりわけ、歴史における個人的動機の作用についての論述は深く印象に残った。

著者によると、個人の動機はそのまま歴史に働きかけるのではなく、思想的政治的論理を媒介として初めて社会的作用が獲得されるという。個人は時代精神の外にあるのではなく、むしろ思想史の動きを凝縮して表出する、という一面がある。そこに目を向けるのは、何も個人の歴史的作用を問わないのではない。個人の主観的内面と思想史ないし政治史の相関関係に注目し、両者の相互影響を弁証法的に捉えるためである。その作業は歴史批判において、きわめて重要な意味を持つであろう。過去について考えるとき、歴史の解釈は当事者の個人的意志の偶然性と関連づけて論じられやすい。そのほうがいかにも因果関係が判然としているらしく、説得力があるように見える。しかし著者は、まさにそこに問題があると見ている。なぜなら、個人の資質や悪しき意図に還元することは、問題を単純化するばかりでなく、「逆に問題の根本への批判を曖昧にする」からだ。三〇年代文学にとどまらず、文学、思想や歴史全般について意義深い見解であろう。

人間の経験や知見は必然的に時代的な条件に制約を受ける。重要なのは現象に引きずり回されるのではなく、問題の本質を捉えることだ。これが著者の一貫して主張しようとしたことであろう。「魯迅の”第三種人”観」の、歴史的「現実性」についての論述にもその主張がつよく滲み出ている。

過去の出来事を検証するとき、現在における現実性ではなく、過去の時点においてそれが現実的であったかどうかを考えることが大切だ。歴史においてありえた選択肢は、現在の知見において論理的であり、「現実的」に見えても、歴史的時間においても論理的であり、現実的であったかどうかを吟味する必要がある、一見、当たり前の議論のように見えるかもしれないが、著者があげた事例に照らしてみると、必ずしもそうではない。というより、多くの場合、むしろ忘れ去られることが多い。むろん著者の論考は、過去を現在から完全に切り離すものではない。現在の知見に照らしつつも、過去を現在と異なるコンテクストにおいて理解する必要性を説いたものだ。それは歴史を扱うときの方法論である以上に、信念のように著者の研究に貫かれている。

三〇年代の左翼作家連盟の活動についての、「当時の中国において最良の質を持った青年たちの少なくとも相当部分が、その運動に惹きつけられ、文字どおり生命を賭け得たのはなぜであったのか、彼らを内から動かしていたものは何であったのか、それらは果たして”幻想”にすぎなかったのか、もし幻想であったというなら、幻想でないものとして何があり得たのか」という言葉を読んで、はっとさせられた。三〇年代に限らず、建国後十七年の文学についても言えることであろう。現代中国の政治を経験しただけに、身につまされる問いかけである、

本書には五十年近くにわたる研究生活のなかで執筆されたもので、いずれも単行本に収められていないものばかりだ。著者の全仕事を知るには、むろんほかの単行本のほうも読まなければならないが、一方、本書を読んで、この半世紀来の、著者の思想の歴程が見えてきたような気がした。

【この書評が収録されている書籍】
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010 / 張 競
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010
  • 著者:張 競
  • 出版社:ピラールプレス
  • 装丁:単行本(408ページ)
  • 発売日:2011-05-28
  • ISBN-10:4861940249
  • ISBN-13:978-4861940248
内容紹介:
読み巧者の中国人比較文学者が、13年の間に書いた書評を集大成。中国関係の本はもとより、さまざまな分野の本を紹介・批評した、世界をもっと広げるための"知"の読書案内。

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魯迅・文学・歴史 / 丸山 昇
魯迅・文学・歴史
  • 著者:丸山 昇
  • 出版社:汲古書院
  • 装丁:単行本(597ページ)
  • 発売日:2004-10-00
  • ISBN-10:4762927295
  • ISBN-13:978-4762927294
内容紹介:
魯迅についての様々な文章、建国後における知識人をめぐる問題、中国現代文学研究や師を想うなどの回顧と感想を論述。著者の、今まで単行本に入っていなかった文章を一冊にまとめる。

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