対談・鼎談

『漢語と日本人』(みすず書房)

  • 2018/05/16
漢語と日本人 / 鈴木 修次
漢語と日本人
  • 著者:鈴木 修次
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(279ページ)
  • ISBN:4622011751
内容紹介:
本書は、日常における漢語使用を具体的にとりあげ、その意味と機能を明らかにしたユニークな「ことばの文化論」である。「的」の文化、禅文化にまつわる漢語、音訓混用語など、豊富な実例によって展開される本書は、日本語を考える人々に貴重な示唆を与えるにちがいない。

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丸谷 これまでの日本語論に欠けているのはなにかというと漢語の研究らしいですね。『擬音語・擬態語事典』というのがあるし、別の学者による『擬声語・擬音語』論も出ているんだそうですが、どちらも漢語によるオノマトピアを扱っていない。中国の詩の専門家である著者は、ここのところに注目して、この漢語中心の日本語論を書きました。

日本人は漢字を実にうまく使っている民族でありまして、たとえば「電信」「電話」「電報」などは、みな日本人の造語ですが、現在、中国語でもそのまま使われています。「思想」「文化」「文明」といった言葉はもともとは中国の古典に出典があるのですが、日本人がそれを応用して西洋語の訳語にしたものであります。「的」というのもそうですね。

中国語にも「的」はありますが、中国語の「的」というのは、まず名詞と名詞のあいだに入れて「――の」「――に関する」「――についての」という意味になる。「世界的情況」は「世界の情況」というわけです。

また「可愛的人」がかわいい人を意味するように、形容詞(形容動詞)・副詞に添えて形容詩・副詞であることを示したり、形容詞句、副詞句をつくるというはたらきもあります。

ところが日本語でたとえば、「おまえの態度は反抗的だ」というのは、「場合によっては反抗しているように見られないでもないそ」といったニュアンスで、中国語の用法にはないわけです。これは奥ゆかしさを求め、有心(うしん)や幽玄を愛する日本的美意識に通じるものだというので、著者は「幻暈嗜好」と名づけています。その曖昧さの故に、「的」はまた非常に自由無碍(むげ)であって、融通がきく。そういう意味で「的」はまことに日本人の表現にふさわしい。

こうした中国語と違う日本独特の漢字の用法を、この中国文学者である著者は決して咎めないんです。むしろ彼は、それが漢字の特性であると考えるんですね。

この本はこういう具合に漢字についての厖大な知識をいろいろと提供してくれる点でまことに貴重なものなんですけれども、ところどころぼくには納得のゆかない意見もありました。

山崎 日本語の中の漢字、あるいは漢語に由来している日本語の問題を改めて取りあげて考えようという姿勢は、大いに共感をおぼえました。

禅宗では「抑下(よくげ)の托上(たくじょう)」といういい方をして、つまらない言葉を高級な意味に使うというのがあるけれども、日本人はその逆で「抑上の托下」とでもいうべきことをやる。

たとえばわれわれは人を「勘弁」するといいますが、この「勘弁」のように元来は宗教的な価値をもっていた尊厳な言葉を、たいへん無価値な俗語にしてしまう。いちばんいい例は「おい、そこの大将」などという。これは日本の大衆的教養の層の厚さを示しているのであって、たいへんおもしろいと思いました。

ただ、根本的なことについて若干疑問があるんです。この筆者は、現代の日本語に対してたいへん寛容でして、たとえば日本労働組合総評議会を総評というように言葉を勝手に短縮することにも同情的で、本来、漢語にそういう能力があるのであって、どんどん俗語をつくり出し、どんどん簡略にすればよろしいということをいっています。

オノマトピアについても非常に理解がありまして、もともと「あくせく」とか「あいまい」とかいうような言葉は擬態語、擬声語なのであるから、つまり、中国古典においてそういうことが行なわれていたんだから、現代の様々な、流行歌手やタレントたちが使うオノマトピアも、片っ端から許せばいいといういい方をしている。

言葉というのはたしかに変ってゆくものですが、変ってゆくものであると同時に、同一性というか、二人以上の人間が同じ言葉を使うというところに言葉の本来の意味があるはずです。言葉というのはまさに、厳密な意味において生きものなので、生きものとは、つねに変りながら、ある同一性を保っているもののことをいうんですね。そのときどきの自分の気持にぴったりだからといって、どんなオノマトピアも思いつくままに使えばいいということではなかろうと思います。もちろん筆者は言葉の同一性ということはわかった上で、この主張をされているのでしょうけれども。

木村 この本のなかに、「陸封」現象のことがでてきますね。「陸封」はリクフウと読むのか、リクホウと読むのか知らないけれども、これはどう読んでもいいんで……(笑)。

丸谷 そうそう、著者の考え方はそうですね。ロクホウでもかまわない(笑)。

木村 著者はそういう陸にとじこめられた魚の例を出して、中国の古い言葉を日本がいま使っている状況を説明していますが、これは何も日本語だけの特異現象とはいえませんね。たとえばカナダに伝わっているフランス語も同じことで、十七世紀の非常に古い言葉がいまだに残っておりまして、「ボアチュール」(車)をカナダでは「シャール」というんですね。「シャール」は英語の「カー」と共通しておりますが、ローマの戦車からきた言葉で、このような非常に古い言葉が、べつに鎖国の歴史をもたなくても、いまでも使われているわけです。

それからこの本は、いかに中国の元の意味と、現在日本で使われている意味とが違うかということを書いています。「挨拶」にしろ、「元気」にしろ、いまの中国人には全然何のことかわからない。それはそれでたいへんに役に立つ知識ですが、要するにここで論じられていることは、漢語という名前の日本語なのであって、漢語そのものではないわけですね。元の意味と違うということは、あらたに日本語として生きたからということなんで、どれだけ違うかということよりも、日本で漢語という名の日本語が、どういうふうに発展したかを考えるべきだと思うんです。

(次ページに続く)

初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1978年11月10日

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