一つ知るたびに広がる漢字の世界
いきなりで申し訳ないのですが、次の漢字を読んでみてください。① ミカンが撓わに実っている。
② 大人の女性の窈窕とした雰囲気。
③ 腹が立ったので、家に帰って不貞寝する。
④ 頭痛で顳顬のあたりがズキズキする。
①「撓わ」は、「たわわ」。“枝がしなるほどたくさん”という意味を表します。
②「窈窕」は、「ようちょう」と読み、“女性のしとやかなようす”を表すことば。
③「不貞寝」の読み方は、「ふてね」。“どうにでもなれ、という気分になって寝る”ことですよね。
④「顳顬」は、ふつうは「こめかみ」と読む漢字。“目と耳の間、頭が痛むときにもみたくなる部分”を指しています。
四つとも読めた人は、漢字をかなりご存じです。自信を持っていいでしょう。
読めない漢字があった人も、がっかりする必要はありません。みなさんは今、新しい知識を手に入れたのですから。そして、これから先も未知のものにいっぱい出会えるのだ、と考えてみてください。なんだかワクワクしてきませんか?
日本語には、読み方が難しい、いわゆる“難読漢字”がたくさんあります。それらの一つを読めるようになるということは、新しい知識が一つ増えたということ。自分が賢くなった気がしますよね。
しかも、難読漢字の数の多さといったら、事実上、無限だと言ってもいいくらい。“また一つ賢くなった”という知的興奮を限りなく味わえるわけですから、難読漢字の勉強にはまる人が現れるのは、当然のことといえましょう。
実際、テレビを見れば、難読漢字を取り扱うクイズ番組が毎日のように放送されていますし、インターネットの世界でも、難読漢字を紹介するコラムを載せたページが、あっちでもこっちでも花盛り。みなさんの中にも、それらを日々、楽しんでいる人が、きっとたくさんいらっしゃることでしょう。
そうやって、多くの人が自分の知的成長を実感できるというのは、すばらしいことです。ただ、漢字をメシの食い種にしている私のような人間からすると、同時に、ちょっともったいないような気もしています。なぜなら、一つ一つの難読漢字の背後には、“どう読むのか?”よりもさらにおもしろい、“どうしてそう読むことになったのか?”という物語が横たわっているからです。
漢字を使いこなす先人の知恵
たとえば、「撓わ」を「たわわ」と読むのは、もともとは中国語を書き表すためだけに作られた漢字を、日本語を書き表すときにも使えるようにした、カスタマイズの結果です。「窈窕」の読み方を通じては、古代中国の人々がどのような方法で漢字を次々に生み出していったのか、その一端をうかがい知ることができるでしょう。「不貞寝」を「ふてね」と読む漢字の使い方は、どんなことばを書き表すときでも“なんとか漢字を使いたい〟と考える、日本人の情熱のたまもの。「顳顬」を「こめかみ」と読むのに至っては、音読み・訓読みという基本的な読み方を無視して漢字を使ってやろうという、なんとも大胆不敵な試みの結果なのです。
そういった事情を知ると、漢字の世界がさらにおもしろく見えてきます。せっかく難読漢
字の勉強をしているのに、そのおもしろさに触れずにいるなんて、もったいないと思いませんか?
そこで、この本では、さまざまな難読漢字を取り上げてみなさんの知的好奇心を満たすだけではなく、その背景に見え隠れする、漢字のしくみやその移り変わり、先人たちが漢字を使いこなすために編み出した知恵などをも説明していきます。といっても、専門的な議論に深入りするつもりはありません。知っておくと漢字の世界がよりおもしろく見えてくるような知識を、わかりやすくご紹介していきます。
“木を見て森を見ず”ということばになぞらえていえば、一つ一つの難読漢字の読み方を知ることは、一本一本の“木を見る”ことに当たります。それぞれの木を前に、美しい花やみごとな枝ぶりを観察するのは、もちろん楽しいことです。でも、“森を見る”ことによってその壮大さに心打たれるのも、また感銘が深いものですよね。
私が申し上げている“森を見る”とは、漢字の世界の全体像に触れること。“木を見るついでに森も見てやろう”というのが、この本の基本的なコンセプトです。
それでは、漢字の広大な“森”の探険に、出かけることといたしましょう。
[書き手]円満字二郎(えんまんじ・じろう)
1967 年、兵庫県西宮市生まれ。大学卒業後、出版社で国語教科書や漢和辞典などの担当編集者として働く。2008 年、退職してフリーに。著書に、『漢字ときあかし辞典』『部首ときあかし辞典』『漢字の使い分けときあかし辞典』『四字熟語ときあかし辞典』(以上、研究社)、『漢和辞典的に申しますと。』(文春文庫)、『数になりたかった皇帝 漢字と数の物語』『漢字の植物苑 花の名前をたずねてみれば』(以上、岩波書店)、『雨かんむり漢字読本』(草思社文庫)などがある。