後書き
『正直じゃいけん』(角川春樹事務所)
単行本あとがき
いまでもあるのかないのか、あるとしたらどの地域にあるのか、分からないが、むかし、私が育った地域に、「正直じゃいけん」というのがあった。文字で表すのであれば、正直じゃんけん、と書くべきかもしれないが、ここではむかし言っていたとおり、「正直じゃいけん」と書く。「正直じゃいけん」のルールはきわめて単簡で、じゃいけんというのはなんらかの権利を巡ってなされる勝負であるが、負けたものが勝者が得るべき権利を得る、というのが「正直じゃいけん」のルールである。すなわち、一方がグーを出し、いま一方がチョキを出した場合、通常のじゃいけんであれば、グーの勝ちであるが、「正直じゃいけん」においては、負けたチョキが勝者の権利を得るのである。
勝負が行われる前に誰かが、「正直じゃいけん」で行こう、と宣言すればその勝負はただちに、「正直じゃいけん」となり、通常、「じゃい、けん、ほい」とかけられるかけ声が、「正直じゃいけん、じゃい、けん、ほい」と変更され、その勝負においては敗者が勝者となるのである。
興味深いのは、なぜ子供らがそのじゃいけんを、「正直じゃいけん」と呼んでいたかで、敗北した者が勝者の権利を得ることを、正直、と呼ぶのはどういう訳だろうか。
勝者が勝者であることは不正直なことで、敗者が勝者であることは正直なことと言っているのか。或いは、正直な者は現世において必ず敗北する、と言っているのだろうか。
或いは、その両方を混ぜ、正直な者は現世では敗北するが、あの世であるところの、正直の世では勝利すると言っているのであろうか。
随筆原稿は小説原稿と違ってなるべく嘘のない方がよろしいはずである。
私は正直な気持ちを正直に書いたつもりであるが、そのことによって私は敗北するのだろうか。勝利するのだろうか。
私は、「正直じゃいけん」という書名をきわめて不安な気持ちで見つめ、それが、「正直じゃいけん(正直ではいけない)」という意味にも取れることで、よりいっそう不安な気持ちになったりしている。そこで、どーも、すみません。と不正直に謝ってみたが周囲には誰もいないし、いつまでもこんなことを考えても意味ないよね、と正直に思った。読んでくれてありがとう、と正直、おもった。印税はぜんぶ君にあげるよ。と不正直に言った。その時点で、もう自分がどうなるのか分からない、と思ったのでもう原稿を書くのはやめて家に帰ろうと正直に思う。正直が一番ですよ。いや、ホント。
二〇〇五年十二月 町田康
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