誠実な懐疑家の肖像
生前には、親しい交流を持ちながらも、他方で「文芸的な、余りに文芸的な」に見られるような論争も繰り広げた、芥川龍之介と谷崎潤一郎という二人の小説家の年譜を比べてみることは興味深い。芥川は、明治二十五年(一八九二)に生まれ、昭和二年(一九二七)に三十六歳で自死しており、谷崎はその六歳年上で、昭和四十年(一九六五)に享年八十歳で病没している。偶然だろうが、芥川の命日である七月二十四日は、谷崎の誕生日である。
大正時代を通じて、この二人のモダニストは、作風こそ違え、手を変え品を変えて、ありとあらゆるスタイルの短篇小説を書き続けたが、芥川が昭和へと年号を跨いだのを機に「ぼんやりした不安」という有名な言葉を遺して自ら命を絶ったのとは対照的に、谷崎は、丁度その前後から旺盛に長篇小説の執筆に取り組み始め、近代文学史上、極めて例外的な作家的長寿を全うするに至る。
徹底して昭和の人だった三島由紀夫は、まさしくその長篇小説の数々により、揺るぎない評価を確立した谷崎を、敬愛の念を込めて「大谷崎」と呼んだが、しかし、芥川と同時代人だった谷崎は、「小谷崎」とでも呼ぶより他ない、風変わりな短篇作家に過ぎず、その出来映えにも、かなりのムラがあった。
洋の東西を問わぬ博識に加え、反自然主義的なスタイリストという点でも共通していたこの二人の間には、一体何が違いとして横たわっていたのだろうか?
最初期のそれぞれの出世作、『鼻』と『刺青』とに既に見られるように、芥川の小説の主要なテーマが、他者を媒介とした自意識の徹底した〈懐疑〉にあったのに対して、谷崎の小説では、他者に対する自己の欲望に〈執着〉し続けることこそが重要となる。
己の欲望を、飽くまで己のものとして盲信する谷崎の小説の主人公たちは、他者との間に交換不可能な断ち難い関係を設置し、リニアに展開する物語の中で、一方向的に持続する主体を練り上げてゆく。ところが、芥川の〈懐疑〉は、そうした主体の個を、いとも簡単に解体してしまう。
谷崎にとって、一回ごとの具体性を以て経験され、〈執着〉される他者への欲望は、芥川に於いては、自己に対する〈懐疑〉的な批評によって、絶えず抽象化され、他者はまさにその他者であるところの必然性を喪失し、関係は空疎な一般化を施される。結果、読者には、谷崎の小説が、いつでも谷崎に特異な問題を扱っているように感じられるのに対して、芥川の小説は、どれほど奇抜な設定であっても、どこか、人間一般の寓話のように受け止められる。欲望を一匹の犬のようなものだとするならば、谷崎は、その走り回る手応えをリードを通して感じながら、飼い犬として固有名詞を主語にしながら描く。芥川は、それを解剖してみることで、犬一般であることを確かめ、飼い犬であるという事実そのものを疑う。
芥川に長篇が可能だったかどうかという問いは、従って、彼に谷崎のような作家的長寿が可能だったのかどうかという問いと、実は直接繋がっている。谷崎が飽くまで踏み留まった、自己があり、他者があって、その関係が対称的であるという世界は、どれほど妄想的であろうと、時問の中で推移する細部を要請し、結果、他者の他者性のなにがしかを汲み取り、また自己の自己たる所以のなにがしかを表し得ている。だからこそ、長篇は成立し、自己反復的な欲望を描きながら、それぞれに違う小説を書き続けることが出来た。芥川の尤もとも思える〈懐疑〉は、その遥か手前で関係の実体性から後退するが、それ故に、却って異なる意匠の下に、結局は同じに見える小説が出来上がってしまう。その意匠を、そのまま肯定するということもまた、一つの文学的態度だが、皮肉なことに、それを「結局は同じ」に見せるのもまた、芥川的な分析に外ならない。
こうした芥川の困難な小説家的資質は、しかし、個人を見舞うイデオロギーの暴力性を〈懐疑〉の対象とする際には、俄然、冴えを見せる。その一例は、『或日の大石内蔵之助』である。
赤穂四十七士の吉良邸討入りというよく知られた史実に基づくこの作品が扱うのは、通例とは違い、宿願が果たされるまでの過程ではなく、その後である。
着想は、あれほどまでに綿密周到なプランを練り、人心に通じ、「佯狂」をも辞さずに「苦肉の計」に耐えた大石内蔵之助が、世間が考えるほど単純な人間であったはずがないという芥川らしい推測に由来している。社会的自己と「ほんとうの」自己との乖離というのは、『ひよつとこ』であざやかに描き出して以来、彼の主要なテーマの一つだったが、その意味でも、内蔵之助はうってつけの人物であったのだろう。
内蔵之助の復讐の動機として、作中、私怨の感情がまったく強調されていない点は注目すべきである。彼にとって復讐は、飽くまで公的な行為であり、しかも、それを官僚制度が強制する義務として遂行するのではなく、武士としてのアイデンティティを直接に問う「道徳」的な要請として引き受ける。重要なのは、復讐という結果ではなく、〈忠義〉というイデオロギーを、「良心」の問題として完壁に実践する主体である。
内蔵之助が、心地良い達成感から、〈懐疑〉的な内省へと陥るきっかけは、極めて洗練された批評的方法で提示されている。彼は、同志らが、誇らしげに江戸に広まっている仇討の流行を語るのを耳にする。そして、元禄文化の中枢で生活する彼らが、無意識裡にパロディとしているものが何であるのかを、不快によって、即座に感覚的に察知するのである。
作者は、内蔵之助自らの指摘に、同志らの慷慨を接いで、この仇討には、二種類の不参加があったことを抜かりなく説明している。まず藩内の身分の高い者たち。そして、仇討の参加者と同様に身分が低く、最初この計画に同調していながら、背盟した者たちである。
仇討の成就後、彼らはいずれも、世間の悪口雑言に曝されている。が、内蔵之助は、彼らの変心の多くを、「気の毒なくらい真率」として理解している。この同情に真に値するのは、下級武士らである。彼らこそは、命が惜しいという、まさしく「真率」な動機から、変心に至った者たちである。他方、身分の高い者らは、ジジェク好みの分析対象となる。彼らは、〈忠義〉というイデオロギーの誤謬、あるいは過剰さを、太平の世にあって十分に理解しながら、その体制を維持するメリットを知っているが故に、シニカルな笑いとともにこれと戯れ、馬鹿正直な実践者とはならないのである。現に、仇討の参加者らは、まさしくそのイデオロギーの中心たる幕府によって、この後、切腹を命ぜられることとなる。
内蔵之助の内省は、自らが先導し、体現してみせた〈正義〉への違和感を探り当てる。それは、周囲の目を偽り、放埒な生活を営んでいた間に、その実、自ら復讐の挙へと赴くことを完全に忘却しようとしていた幾つかの瞬問にこそ、既に予感されていたものである。
彼は、江戸の人間たちの無邪気な「復讐」ブームに、何かしら馬鹿げたものを感じ、しかも、その馬鹿らしさこそが、深刻に当の内蔵之助らの行為を批評していることに気がつく。同志たちは、自らが、今時珍しい〈忠義〉の完全な体現者であることに無上の誇りを覚えているが、内蔵之助は、まさにその珍しさにこそ言い知れぬ滑稽さを認め、またその完壁さに本質的な空虚を感じているのである。
森鴎外が『興津弥五右衛門の遺書』を書き、夏目漱石が『こころ』を書いたように、芥川のこの大正六年に発表された小説に、乃木希典の殉死の反映があることは間違いない。そして、この後、昭和という時代を迎えることを知っている現代の読者は、それ故に、〈正義〉を巡る作者の緻密な考察に、単なる心理解剖以上の政治的誠実さを認めるであろう。
芥川のアクチュアリティは、今日、まさにこの点にこそ存している。
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