解説

『芥川龍之介全集』(岩波書店)

  • 2017/09/16
芥川龍之介全集〈第1巻〉羅生門 鼻 / 芥川 龍之介
芥川龍之介全集〈第1巻〉羅生門 鼻
  • 著者:芥川 龍之介
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(410ページ)
  • 発売日:1995-11-08
  • ISBN-10:4000919717
  • ISBN-13:978-4000919715
内容紹介:
普及版

「時代病」を生きる保吉

芥川龍之介では、自伝的系列の「保吉もの」が好きだ。とりわけ、横須賀海軍機関学校の英語教師だった時代の貧乏生活を描いた「堀川保吉」連作は、いまだに我がことのように読むことができる。

もちろん、「保吉もの」は自意識がむきだしになりすぎていて、読むのに苦しいという意見があることは知っている。しかし、私は、フランス語でいうところの「黒服の悲惨」、すなわち、学校という近代的制度によって知識を馬糞のように頭に詰め込まれたあげく、安月給の臨時雇い講師として、肉体労働者並みの低賃金に甘んじなくてはならないインテリのルサンチマンを定着したこれら作品群を、プロレタリア文学のルポルタージュなどよりもはるかに貴重な時代の証言だと信じている。プロレタリア文学に描かれた現実は今では御伽話のようになってしまっているが、「成り上がリインテリ」保吉の屈辱と悲惨は、高学歴社会が進むにつれて、ますます切実な課題となってきているからだ。

たとえば、『十円札』では保吉は、給料日はまだ当分先だというのに、ポケットに六十銭しかなく東京に出ることもできずにいる。そんな時偶然、同僚教師の粟野さんに出会い、思わず自分の給料の低さと原稿料の安さを力説してしまう。

「月給は御承知の通り六十円ですが、原稿料は一枚九十銭なんです。仮に一月に五十枚書いても、僅かに五九四十五円ですね。其処へ小雑誌の原稿料は六十銭を上下してゐるんですから……」

『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日文庫)でこの時代の各種職業の初任給を調べてみると、公務員の高等官が七十円、銀行員が四十円程度だから、芥川の六十円はそれほどべらぼうに低い給料であるわけではないが、当時の物価水準から見て、衣料費や教養娯楽費ははるかに高かったはずなので、体面にはこだわるほうだった芥川としては、生活は相当に苦しかったにちがいない。

『鼻』『芋粥』などの初期の名作を発表して新進作家として売り出してはいても、ネタ本にする洋書を何冊か買って、月に二、三度、東京に出て観劇をしたりレストランで友人と食事したりすれば、わずかな原稿料など給料日前にすべてなくなるのは当然である。

かくして、前記の愚痴になるわけだが、これを聞かされた同僚教師の粟野さんは、保吉に「これはほんの少しですが、東京行の汽車賃に使つて下さい」と、照れくさそうに、四つに折った十円札(今なら三万円)を差し出す、『十円札』は、この思わぬ申し出にまごつく保吉の葛藤を扱ったものだが、これなど、若いときによく似た体験をしたことのある私など、本当に身につまされる思いがする。

身につまされるといえば、忘れられないのが、『保吉の手帳から』に含まれる「恥」という掌編である。

保吉は例によって機関学校で、英語を教えている。教科書は学校の機関学校という性格上、やっかいな海洋用語がたくさん出てくるテクストを使っているので、いつもは、保吉も下調べを入念にしてから授業に臨むように心掛けている。

ところが、あるとき、テクストが恐るべき悪文で書かれていたため、保吉は、生徒に訳読させながら、彼自身がまず退屈してしまう。生徒の訳を聞いた上で、誤りをいちいち直してやるのが耐え難くなったのだ。そこで、自分で一節ずつ読んで、いきなり訳しはじめる。語学教師というのは、気分が乗っているときの授業は文法的説明やら内容的解説やらで必然的に時間が足りなくなるのだが、反対に、教師自身が退屈していると、訳読だけが先に進んでいって、往々にして時間が余ってしまうものなのである。

その中にふと気がついて見ると、彼の下検べをして来たところはもうたつた四五行しかなかつた。其処を一つ通り越せば、海上用語の暗礁に満ちた、油断のならない荒海だつた。彼は横目で時計を見た。時間は休みの喇叭迄にたつぷり二十分は残つてゐた

この残り二十分というところが曲者なのである。残り十分だったら良心になんら呵責を感ずることもなく、はい今日はこれでお仕舞いと、早めに授業を終えることができる。しかし、二十分となるとそうはいかない。そこで、保吉は下調べをしてきた四、五行をできる限りていねいに訳してみる。しかし、それでも三分しかたっていない。

保吉は絶体絶命になつた

語学教師でこの恐怖を味わったことのないものはいないだろう。こうした場合、唯一取りえる方法は、「なにか質問は?」と生徒に問いかけることである。保吉もご多分にもれず、これで切り抜けようとする。

彼は教科書を置きながら、「質問は――」と口を切らうとした。と、突然まつ赤になつた。なぜそんなにまつ赤になつたか?-それは彼自身にも説明出来ない

この突然の紅潮は教師としてのプライドとか面子といった類いのものに起因しているのではあるまい。保吉の場合、もっと根源から突き上げてくる「恥」、自己の存在に大きな亀裂を与えかねない「恥」が原因だったように思える。だから、「それは彼自身にも説明出来ない」ものだといっているのだ。あるいは、それは、大正という近代が生んだ成り上がりインテリの疚しさ、「黒服の悲惨」それ自体に対する恥ずかしさだったのかもしれない。

いずれにしても、保吉は、強く「恥」を感じて、真っ赤になり、一瞬のうちに決断をくだすのである。

彼はもう一度時計を見た。それから、――教科書を取り上げるが早いか、無茶苦茶に先を読み始めた

存在論的な「恥」に対するこの理不尽な対応、これこそが、芥川龍之介をして「時代病」の代表的患者に仕立てているものにほかならい。すなわち、保吉の闘いぶりは「タイフウンと闘ふ帆船よりも、もつと壮烈を極めたものだつた」と芥川は書いているが、この説明できない怒りと闘いそのものが、晩年の彼自身の創作の暗喩になっているのである。深読みにすぎるだろうか。

※この解説は『芥川龍之介全集』(岩波書店)月報20に掲載されたものです。

【この解説が収録されている書籍】
解説屋稼業 / 鹿島 茂
解説屋稼業
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(238ページ)
  • 発売日:2001-08-00
  • ISBN-10:479496496X
  • ISBN-13:978-4794964960
内容紹介:
著者はプロの解説屋である!?本を勇気づけ、読者を楽しませる鹿島流真剣勝負の妙技、ここにあり。

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芥川龍之介全集〈第1巻〉羅生門 鼻 / 芥川 龍之介
芥川龍之介全集〈第1巻〉羅生門 鼻
  • 著者:芥川 龍之介
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(410ページ)
  • 発売日:1995-11-08
  • ISBN-10:4000919717
  • ISBN-13:978-4000919715
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