書評

天使の歩廊―ある建築家をめぐる物語 (新潮社)

  • 2017/09/03
天使の歩廊―ある建築家をめぐる物語 (新潮文庫) / 中村 弦
天使の歩廊―ある建築家をめぐる物語 (新潮文庫)
  • 著者:中村 弦
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(446ページ)
  • 発売日:2011-05-28
  • ISBN:4101355134

※書店によっては、在庫の無い場合や取り扱いの無い場合があります。あらかじめご了承ください。
※詳しい購入方法は、各ネット書店のサイトにてご確認ください。

日本ファンタジーノベル大賞(第20回)

大賞=中村弦「天使の歩廊 ある建築家をめぐる物語」、優秀賞=里見蘭「彼女の知らない彼女」/他の候補作=真山遥「龍守の末裔」、松崎祐「イデアル」/他の選考委員=荒俣宏、小谷真理、椎名誠、鈴木光司/主催=読売新聞東京本社・清水建設 後援=新潮社/発表=「小説新潮」二〇〇八年九月号

着想と構造と文体と詩

この賞の水準は高い。

着想のよさはむろんのこと、その着想にしてもだれもがびっくりするような、これまでの文学的常識の外に出たものが要求される。それに桁(けた)はずれの文学的な腕力がいる。それがないと五百枚も書き切れるものではない。作品の構造もよほど頑丈にできていないと、途中でかならず筆折れしてしまう。なによりも文学は一から十まで言葉でつくるもの、言語運用能力も抜群のものでなければならないし、ファンタジーというからには作品の芯にキラリと輝く詩心(しごころ)が埋め込まれていなくてはならぬ。なんという難関だろう。その難関に六百四十六編もの作品が寄せられたと聞き、これこそ天下の一美観だと――関係者のタワゴトかもしれないが――誇らしくおもった。

中村弦氏の『天使の歩廊 ある建築家をめぐる物語』は、右の難関突破条件をほぼ充たしている。

明治初年の銀座で、父の経営する西洋洗濯屋の物干し場にひるがえる真っ白なワイシャツの列を飛翔する天使たちと見た少年が、地上と天界をつなごうと志して、いくつかふしぎな建物を設計し、昭和初期に大日本帝国の傀儡(かいらい)国家満洲へと旅立つ……。海外では建築小説はそう珍しくないが、わが国ではここまでがっぷりと建築に取り組んだ小説は寡聞にして知らない。評者(わたし)はまずこの着想に惹(ひ)かれた。

さらに作者は、この建築家の半生を時の流れにそって順番に書くやり方を捨てて、その半生の一齣(ひとこま)一齣を挿話に仕立て上げて、時間軸に逆らって近過去の次に大過去、大過去の次に中過去というふうに乱雑に並べ換えた。もちろんこの乱雑さにはしたたかな計算がはたらいている。したがって読者は、建築家の半生をジグザグに辿ることになり、そのジグザグするすきまに、天使が現われ、初恋が息を吹き返し、人生の謎が加速し、ひっくるめて独特の詩情が立ちのぼる。巧みな構造だ。文章は明快、文体も安定、とてもおもしろい。

ただし、地上と天界をつなごうとして設計された建物が案外、平凡だった。ひょっとしたらこの建築家は行った先の満洲で、地上と天界をつなぐような建物を設計したかもしれず、満洲の挿話が欠けていると話が終わらないような気もする。そこで「ほぼ充たしている」と書いたわけだ。もう一つ、この建築家の思想はかならずや権力側と衝突するはずで、そこへ筆が届いていないのも惜しまれるが、しかしながらそういった瑕(きず)を覆い隠すほどの美点をたくさん備えていることもたしかなので、この作を大賞に推した。

里見蘭氏の『彼女の知らない彼女』の着想は並行世界である。怪我をした女子マラソンの名選手の替え玉を、彼女のコーチが別世界へ探しに行くというのが前半のたくらみ。理想的な替え玉のいる世界へなかなか行き着けないでまごつくおもしろさを巧みに書いたのはりっぱな手柄だった。後半は一転して、替え玉に対する猛練習のあれこれ、本番レースの駆け引きなど、スポーツ小説に変身し、おしまいは自己発見の成長小説へと三転して完結する。まったく質のちがう三つのタイプの物語を上手につないで、全編をすらすらと読ませてしまう才筆に感心した。これはみごとな小説的軽業(かるわざ)である。

彼女の知らない彼女 / 里見 蘭
彼女の知らない彼女
  • 著者:里見 蘭
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(218ページ)
  • ISBN:4103130113

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時はピストルが出回りはじめたころの近世後期か、所は中欧あたりの学問都市か(二つとも評者の個人的な感想)……。とにかく川を抱(いだ)いた学問都市で、男装の天才少女数学者がいくつもの難問に挑戦する。これが松崎祐氏の『イデアル』の道具立てだが、しかしなんというすばらしい着想だろうか。この着想に堅固な構造が与えられ、そして文章と文体に冴えがあれば、たいへんすぐれた作品になったはずだが、作者は女性数学者という自分の発明を粗末に扱ってしまった。「女性の数学者だからこそ、これこれしかじかの物語になりました」という展開がまったくない。せっかくのすぐれた着想なのに、もったいない話だ。数学の難問に向き合うときの知性、男性に向き合うときの感情。この二つの相克からもっとすばらしい物語が導きだされたはずなのに、作者は後者(感情)を無菌室に閉じこめてしまった。これではドラマもリズムも生まれない、ぜひ書きなおしてください。きっと傑作になる。

真山遥氏の『龍守の末裔』は、ひどいことをいうようだが、だらだらとだらしなく、なんでもありの、緩(ゆる)くて温(ぬる)い作品である。作者はご自分の着想と読者とに、もっと誠意をこめて向き合う必要がある。文章力はあるのだから一から出直せば、なんとかなるはずだ。

【この書評が収録されている書籍】
井上ひさし全選評 / 井上 ひさし
井上ひさし全選評
  • 著者:井上 ひさし
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(821ページ)
  • ISBN:4560080380

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天使の歩廊―ある建築家をめぐる物語 (新潮文庫) / 中村 弦
天使の歩廊―ある建築家をめぐる物語 (新潮文庫)
  • 著者:中村 弦
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(446ページ)
  • 発売日:2011-05-28
  • ISBN:4101355134

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初出メディア

小説新潮

小説新潮 2008年9月

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