書評
『わが人生の記―十八世紀ガラス職人の自伝』(白水社)
18世紀の民衆意識伝える性的自叙伝
一九七〇年代のある日、パリ歴史図書館で、ジャック=ルイ・メネトラという十八世紀のガラス職人の自伝『わが人生の記』の草稿が二世紀ぶりに発見された。こうした「驚くべき発見」は戦災に会うことの少なかったフランスでは時として起きるが、問題はこの草稿の発見者が気鋭のアナール派学者ダニエル・ロシュだったことである。というのも「まず資料を疑え」という心構えをたたき込まれた歴史学者としては、「歴史家が思い描いていた夢が現実のものになった」(ロバート・ダーントンの「序」)かのようなこの発見に狂喜しつつも、極度に慎重な態度で臨まざるを得なかったからである。もし偽書だったりしたら、学者生命は一巻の終わりなのだ。そこで、ロシュはメネトラの自伝に現れてくるエピソードや事件、人名、地名、年代などを徹底して調べあげ、そこに現れる矛盾や嘘を暴いて、少なからぬエピソードが同時代の《瓦版》や民衆演劇あるいはボッカチオ風笑話から借りた作り話であり、メネトラが出会いを主張する歴史上の人物(義賊のマンドラン)や事件(職人組合同士の大規模な抗争)が年代錯誤を犯していることを明るみに出した。また「自伝」と銘打つことで生まれる虚構化、ドラマ化の傾向が見られることも確認した。
しかし、そうした誇張、誤記、創作といった側面が多々あるにもかかわらず、ロシュはメネトラの言葉には疑いようのない歴史的真実性があることを否定できなくなった。やはり、これは直接史料の少ない十八世紀民衆史においては、下層民衆文化の形成と機能を理解させてくれる「閃光」のような第一級の史料と結論せざるをえないのである。しかも、それはアナール派が得意とする計量的史料(戸籍簿、公証人文書、警察文書)による民衆文化の研究から、一人の具体的な人間を通じて把握される感性や生活感情の考察へと「歴史の方法を移していくことを可能にする」ものなのである。
では、こうした厳密な校訂を経て日の目を見た『わが人生の記』とはいかなる書物なのかといえば、ロシュがその表現を回避しているにもかかわらず、「民衆版のカサノヴァ回想録」というのが一番ぴったりくる。つまり、その細部が識字率、衣食住、暴力などの研究に益する部分が多いとはいえ、自伝の力点は明らかに《フランス修業巡歴》で出会った多くの女たちとの性的かかわりに置かれているのだ。ようするに「気取りや熟慮」なしの庶民の性的自叙伝であり、フランス版「土佐源氏」といった趣の本なのである。
一七三八年にパリのガラス職人の家庭に生まれたメネトラは二歳で母を亡くし、里子に出された後、十一歳まで祖母に育てられる。父からガラス職の手ほどきを受けるが、泥酔して暴力をふるう父を嫌い、十八歳で《フランス修業巡歴》に出発する。各都市で腕を磨いたあとパリに戻り、結婚して仕事場を開く。息子一人と娘一人が生まれるが、やがて妻には逃げられ、親方となった息子にも仕事場を去られて失意の晩年を過ごす。
以上がメネトラの略歴だが、興味は、やはり、結婚前五十二件、結婚後十二件という性的アバンチュールにある。
童貞を捨てたのは十代の頃。さる貴族の女性の家で働いたとき、六フランをもらって、性的奉仕する契約を結んだのだ。「わたしが女と関係したのは、この魅力的な女性とのことがはじめてだったし、もらったお金で思いっきり楽しい思いをしたのだ。このようなことがたび重なったので、あらゆるやり方をわきまえることになった」
メネトラの性的熟達の早さは驚くべきもので、修業先の親方の妻や娘に手を出し、未亡人である女主人とはねんごろな関係となる。メネトラは小柄だったが、かなりモテたらしい。目についた女には小まめに声をかけ、少しでも反応があらば強引にアタックするというのが手口である。間男をしている最中に亭主が帰ってきて、扉の陰に隠れたり、屋根から逃げ出したりすることも再三ではない。その結果、メネトラはルソーと同じく、たくさんの私生児を残すことになる。(ちなみに、ルソーとはパリで実際に会って親しく付き合っている)。ただ、ルソーとちがって、メネトラはこうした性的体験を自慢げに語り、「元気いっぱいふんぞり返っている」(ダーントン)。ときには、今日なら強姦罪に当たる行為を「思いがけない授かりもの」と形容したり、輪姦の共犯の職人との仲間意識を強調したりする。どうやら、歴史社会学者がソシアビリテなどと呼んで評価している職人同士の連帯意識にはこのような獣性の友情も含まれていたようである。
とはいえ、どのような意味においても、当時の民衆の意識と行動を生のままに知ることのできるという点ではまちがいなく一級の史料であり、今後、十八世紀研究には不可欠の一冊となるにちがいない。半分近くを占めるロシュの解説・注釈も読みごたえ十分。(喜安朗・訳)
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