書評

『労働階級と危険な階級―19世紀前半のパリ』(みすず書房)

  • 2020/02/16
労働階級と危険な階級―19世紀前半のパリ / ルイ・シュヴァリエ
労働階級と危険な階級―19世紀前半のパリ
  • 著者:ルイ・シュヴァリエ
  • 翻訳:喜安 朗, 相良 匡俊, 木下 賢一
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(497ページ)
  • 発売日:1993-02-00
  • ISBN-10:4622034875
  • ISBN-13:978-4622034872
内容紹介:
民衆の生と死を呑みこみ、膨張するパリ。19世紀前半の都市の変貌をえがきだす歴史人口学の先駆的大著。華やかなファサードの影の犯罪者の世界、売春、犯気、疫病―。〈死はすべてを記帳する〉。19世紀パリの都市社会史。
ルイ・シュヴァリエの『労働階級と危険な階級』が、ついに日本語で読めるようになった(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1993年)。思えば一九五八年にフランスで初版が刊行されて以来、実に三十五年目にして、ようやく翻訳が出たわけである。この事実を率直に喜びたいという気持ちと同時に、翻訳大国といわれる日本において、一つの名著が翻訳されるのにこれだけの時間的経過が必要なのだろうかという憤りに近い感情も湧いてくる。

というのも、本書はブローデルの『地中海』とはまた違った意味で、歴史学の方法に大きな影響を与えずにはおかない最重要の文献だからである。したがって、たんに翻訳されたという事実を確認するだけですませてはならず、内容に見合った「反響」が必要である。つまり、レヴィ・ストロースの著作のように、いまごろになって翻訳されてもなんの意味もないといわれないようにするためには、出版社サイドの当然の努力のほかに、ジャーナリズムの援護射撃がなくてはならないのである。しかるに、大新聞の書評などは、本書を腰巻のコピー程度の短文の紹介で終わらせている。こんなことでは版権の切れた名著の翻訳に挑もうという出版社が出現しなくなってしまうのではと心配になってくるが、文句ばかり言っていてもしかたがない。本題に入ろう。

本書はいくつかの点で先駆的な業積をなすものだが、その第一は都市史というものの重要性を広く認識させた点にある。いまでこそ都市史は大流行だが、四十年前には、たんなる好事家の仕事と片づけられていた。すなわち、パリとパリの住民がなければ大革命を初めとする数次の革命は起こりえなかったにもかかわらず、パリそのものを中心にすえた本格的な歴史研究はそれまで存在していなかったのである。

では、そんな状況において、なぜルイ・シュヴァリエは、パリ、とりわけ十九世紀前半のパリに注目したのだろうか。それは、資料自体の発する叫びが彼の耳に届いたからにちがいない。すなわち、オスマンの改造以前のパリに関するあらゆる資料が、空前の人口爆発による都市機能の麻痺(まひ)と犯罪の増加を訴えていたのである。シュヴァリエはこのうち、人口動態を示す統計などの数量的資料と、小説や新聞記事などの質的資料に注目する。

まず、数量的資料だが、これについては、十八世紀の末から軍事・財政的な目的でパリ市がかなり大規模に行ってきた人口調査によってきわめて詳細なデータが残されていて、シュヴァリエに研究の発端を与える形になっている。すなわち、一八〇一年から一八五一年に至る五十年の間にパリ市の人口が倍になっているという事実にシュヴァリエは着目し、そこから、急激な人口増加による都市機能の低下が、労働階級の淪落(りんらく)を招き、危険な階級、すなわち、犯罪に走る階級への転落を促したという仮説を引き出したのである。シュヴァリエは、まだコンピュータなどのなかった時代に、死亡率と出生率、流入人口と流出人口の比率、男女比、年齢分布等を各区別に、可能な限りクロス・レファレンスさせることによって仮説を裏づける数字を弾き出し、パリの内部に住環境の劣悪な貧民街が形成されて犯罪の温床となっていく過程を具体的に証明していく。

しかしながら、本書がこうした人口動態的な資料にのみ基づいた研究であったなら、シュヴァリエの名がかくまでの名声に包まれることはなかったに違いない。シュヴァリエの真の功績は、ユゴー、バルザック、シューといった作家たちのパリ小説、なかんずく、犯罪を扱った小説を「歴史的」に読み取る独特の視座を生みだした点にある。

従来の社会史は、文学作品を資料として使用することを原則的に戒めながら、バルザックの作品についてはその形而下的な部分のデータの正確さに注目して、例外的にこれを一定の信頼に足る証言とみなす一方、ユゴーの作品は、それがロマンティックで大袈裟(おおげさ)な言説であることを理由に歴史的資料から除外するという態度をとってきた。シュヴァリエによれば、これはまったくの間違いであるという。

当然にもロマンティックで大袈裟な盛り上げ方に対して警戒の眼を向ける伝統的な社会史は、ユゴーやシューよりもバルザックに共感するのであるが、数量的な社会史は逆説的なやり方で、これらの一見して雑音と色彩と熱狂にまみれた作品のうちに、別の種類のけっして無意味とはいえない真理を見いだす。この時代を通じて、パリの歴史の主題はユゴーの小説の題名『レ・ミゼラブル』そのもののうちに示され、要約されてはいまいか。

すなわち、人口動態の分析によって問題の所在を明らかにしたシュヴァリエの歴史学は、ユゴーが人道的な観点から犯罪や犯罪者をどう記述したかということではなく、「現実が記述に対していかなる拘束を与えたか」を、いいかえれば「ユゴーが書こうと望んだ作品ではなく、書かざるをえなかった作品」をこそ検討すべきであるという。こうした観点から、シュヴァリエは、ユゴーの内部において「レ・ミゼラブル」という言葉が、「犯罪者」という語源的用法でもなく、またユゴーの意図する「不幸な人々」という意味でもなく、その両方がわかちがたく結びついたものとして使用されている点を指摘し、危険な階級と労働階級のまじりあいという外的な現実の進行が、ユゴーの無意識を動かしている事実をあきらかにする。ひとことで言えば、シュヴァリエは、文学作品を、時代の集団的社会意識の投影された資料として読み取るというまったく新しい歴史の方法論を発見したのである。

シュヴァリエは、第三部において、言説の無意識の読み取りというこうした方法論を文学作品ばかりではなく、公衆衛生学や警察文書、あるいは大衆文学などの領域にまで拡大すると同時に、人口動態学の方法を病気、死、暴力などの様々な都市問題のファクターにも持ち込んで、「労働階級」から「危険な階級」へというパリ民衆の変容を多角的に描き出し、最終的には「生と死を前にした不平等」という、「社会史の生物学的基礎」という結論にまで到達している。

この結論に対してはブローデルからの痛烈な批判があったようだが、アナール派・反アナール派の別を問わず、人口動態学と言説の無意識を読み取るという二つの方法論において、シュヴァリエの影響を受けなかった若手の研究者は皆無に近いわけなのだから、本書の果たした意義は限りなく大きいといえよう。コルバンの『においの歴史』『娼婦』などの感性の歴史もこれなくしては成立しえなかったものである。

なお原書は、おそらくこれ以上の悪文はあるまいと思われるほど錯綜した文体で書かれており、翻訳の苦労が並大抵のものでなかったことは、容易に想像がつくが、ここまで苦労したのなら、いっそ苦労ついでにテクストに引用されている文学作品も読むという姿勢があってもよかったのではないかと思う。そうすれば、バルザックの『あら皮』を『さめ肌』と訳したり、『幻滅』の第二部と第三部のタイトルである「パリにおける田舎の偉人」と「エーヴとダヴィッド」をそれぞれ『パリの田舎紳士』『イヴとダヴィッド』というように独立の作品であるかのように訳してしまうという凡ミスは避けられたのではないか。文学畑の人間の無いものねだりかもしれないが、本書が文学研究にも影響を及ぼすほど偉大な歴史書であるだけに、この点は気になった。しかし日本語で本書を読めるという重要さに比べたら、こうした瑕瑾(かきん)はいかほどのものでもない。ブローデルを買った読者は、何はともあれ本書を手にいれなければならない。

【この書評が収録されている書籍】
歴史の風 書物の帆  / 鹿島 茂
歴史の風 書物の帆
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:小学館
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2009-06-05
  • ISBN-10:4094084010
  • ISBN-13:978-4094084016
内容紹介:
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・自伝・旅行記」「パリのアウラ」他、各ジャンルごとに構成され、専門分野であるフランス関連書籍はもとより、歴史、哲学、文化など、多岐にわたる分野を自在に横断、読書の美味を味わい尽くす。圧倒的な知の埋蔵量を感じさせながらも、ユーモアあふれる達意の文章で綴られた読書人待望の一冊。文庫版特別企画として巻末にインタビュー「おたくの穴」を収録した。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

労働階級と危険な階級―19世紀前半のパリ / ルイ・シュヴァリエ
労働階級と危険な階級―19世紀前半のパリ
  • 著者:ルイ・シュヴァリエ
  • 翻訳:喜安 朗, 相良 匡俊, 木下 賢一
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(497ページ)
  • 発売日:1993-02-00
  • ISBN-10:4622034875
  • ISBN-13:978-4622034872
内容紹介:
民衆の生と死を呑みこみ、膨張するパリ。19世紀前半の都市の変貌をえがきだす歴史人口学の先駆的大著。華やかなファサードの影の犯罪者の世界、売春、犯気、疫病―。〈死はすべてを記帳する〉。19世紀パリの都市社会史。

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図書新聞 1993年4月17日

週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。

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